lib.i.do
「できごとーKotoー」としてのことばと
「ばーBaー」としてのことばを、
ここに。
ねらいは、ひらかれたゼミです。
ゼミーseminariumーとは
「苗木が育つ場所」です。
わたしという木が育つその下では
わたしという根が
森羅万象ーthe Universeーと
であっているのだと思います。
そのであいの場をここで、
「ことば」をとおしてつくっていけたら
と思うのです。
「今ここ」にしか存在しえない、
ひとつのディスコースとして。
ゆられ、めぐり、
とおくかなたへとちかづく、
ひとときの軌跡として。
その途中に、どうか
あなたを生かすーlib.i.doーとの
であいがありますように。
「全てのものが揺らいでしまっているところでこそ、私たちがどこに立ち、また私たちが何を求めるのかを、私たちは、私たちの立場から知ろうと欲するのであります。」(カール・ヤスパース(1999[1952])『大学の理念』(福井一光訳)理想社、p.3; cit. in 吉見俊哉(2020)『大学という理念絶望のその先へ』東京大学出版会、p.232)
About
lib.i.doは、日常のありふれた「こと・ば」を言葉にして記録する場です。何か詩を作るのでも、読んだ本について考えたこと、ふと思いついたことを書くのでも、なんでも。
liberty, library, liberation…
lib-という接頭辞には、「生(きる)」への欲求、そしてエネルギーがこめられています。わたしを「自由」にさせ、わたしを「生」かすものはなんでしょうか。それをわたしはどのように為しているでしょうか。日常のありふれた「こと・ば」にこそ、これらのイミがたちあらわれるということを、めぐりめぐって引き寄せ合う不思議な力の根源を「こと・ば」に見出せるだろうかと、立ち止まって考えるための場をつくりました。
「ことば」と「生(きる)」の関係を、「書く」ことを通して切り取り、捉え直し、文字に閉じ込めることが、もしかしたら、もしかしたら「わたし」の「自由」ーそれは「わたし」からの「自由」も含むーの根底にあるのかもしれないと、ようやく最近気がつきはじめました。
瞬間に揺れうごく「こと・ば」が、そこかしこにあってほしい、と。
批評家で随筆家の若松英輔は、「書く」ことを次のように述べています。
「書くことは、言葉を花開かせる営みである。語り得ぬコトバを、書くことによって言葉にすることで、私たちは自分の心のなかに眠っている宝珠を発見する。」(若松 2016: 152)
この「自分の心のなかに眠っている宝珠」は、ここで捉えたいものーlib.i.doーそのものです。
言葉にすることは同時に、次なる、未知なる「わたし」を象るものでもあるのですが、そこからこぼれおちる絶対的な象らえなさと、象ることのうちにある曖昧さとの、有限で無限なくりかえしのなかに漂うことの意味がもしあるのなら…この場所ーlib.i.doーを通して考えたいのです。そう思う「こと・ば」もまた、生を彩るlib.i.doであるゆえに。
1人ではどうにもならないので、今は4名の方にご協力いただき、何とかやっています。
気がむいたときに、気がむいたぶんだけ。
一歩ずつ。
こんな感じで、いかがでしょうか。
「書くとは、自らの考えていることを確かめる行為であるよりも、書き得ない何かと邂逅する営みなのだろう。」(若松 2016: 161)
書き得ない誰かとの、出会いを
この場所で。
「書くとは言葉の器をつくるということだ。その言葉の器にわたしがとどめたいとねがうのは、他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ。」「自分の時間へ」(長田 2015: 392)
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2021年4月現在、3つのテーマを設けています:
2021.1月現在、3つのテーマをつくっています。
世界とワタシのズレに向き合う
先人たちの知恵の泉
日常の飾らないひととき
それぞれ、つながっているのもあって、ことさら分ける必要もないのかもしれないと思いつつ…
一応、そのつながりは「カテゴリー」に託してみたりしています。
Categories
- 儚:fleeting (10)
- 呟:murmuring (18)
- 本:Librarium (8)
- 漂:float (11)
- 熟:deliberation (5)
- 解:interpretation (4)
- 記:Logs (31)
- 詩:Poiema (11)
- 驚:discordance (2)
「詩」と「記」は、書き手ごとのページも設けています。
各ページの下に、コメント欄を設けています。
双方向のやりとりができれば、と期待して…
どうぞ、ご自由に。
「しかし、コトバは壊されることはない。コトバはもともと人間の手がふれ得るような場所には存在していないからだ。
コトバによって人は、遠く離れたところにいる人ばかりではなく、彼方の世界にいる者たちとも交わることができる。だからこそ、沈黙のうちに逝きし者たちに祈りを捧げるのだろう。」
若松英輔(2016)『言葉の贈り物』亜紀書房, p.107.