いい意味で心がぞくぞくするすてきな場所に招待してもらって、とってもワクワクしながら書き出してみる!
というわけで、最近積読本を1冊読み終えた。
精神科における”患者”とのやりとりから「やさしさ」を考えるというのがテーマ。実際の相談例を載せながら現代人の考える「やさしさ」に迫っていて、小説みたいにスラスラ読めた。そんな中で、個人的にこの本のキモだと感じたのが、昔の「やさしさ」と現代の「やさしさ」が違うということ。
この本における「やさしさ」とは、滑らかな人間関係を築いていく上で、潤滑油のような働きをするもの、だそう。この基本的な「やさしさ」の役割は、昔も現代も共通しているけれど、指し示すものが違うらしい。ざっと簡単に違いを書いてみるとこうなる。
昔の「やさしさ」
・「気持」重視
・近代語として、人を和ませる性質の一種
→娘たち、花々の美徳としては認められるが、マイナー価値
→優しさは与するに易しいこと
・1970年代(学園闘争) 自分も他人もともに弱い傷ついた者であるという認識
→「互いの傷を舐め合うようなやさしさ」
→「やさしさ」を向けられることで傷ついていたことに気づく
→傷を癒すためには「やさしさ」が必要
現代の”やさしさ”
・具体的に実践可能
・裕福になり、物に囲まれる → 「使い捨て」の時代に
→わずかな傷でも、新品とは認められなくなる
・傷がつくことへの恐れ
→治療としての「やさしさ」から予防としての”やさしさ”へ
→傷をなめ合うのではなく、お互いを傷つけない”やさしさ”
e.g.)あえて電車で高齢者に席を譲らない、声をかけない等
なんというか、昔の「やさしさ」は相手に寄り添う、相手の領域にも足を踏み入れるような感じ。現代の”やさしさ”は、こうしたら「やさしくない(だろう)」という軸があって、その中でこれは相手にとって「やさしい/やさしくない」と決める(決めつける)ようなもの。
この「やさしさ」と”やさしさ”とでは、目指している人間関係自体の内容も変化したらしい。それを理解するうえで紹介されていたのが、「涙する場面」。
●人間が泣いている人を見ると、その人の気持ちを察して同情しようとする。
●人の悲しみに自分の心がゆすられる。
この2つは人間関係における「やさしさ」の原点で、昔も今も変わらないらしい。ただ、変化したのはこの先についてで、
昔は、「人の心の痛みがわが事のように思えることは『良い』こと」で、そうなることで「お互いの気持ちが一つになり、一体感を得られた」から、人は「やさしい人」の前でなら、心おきなく涙することができた。らしい。なるほど。
一方で、現代において”やさしい人”であればあるほど人の悲しみ・悔しさに動揺をしてしまう感受性の鋭い人を指すようになったそう。つまり、「弱い」らしい。
という感じでざっくりとだけ違いを紹介してみました。なるほど~。「やさしさ」とは関係ないけど、別の本で昔と今における人とのつながりの違い、みたいなものを何冊か読んだときに、昔の人は「同質的」「同調的」で、「長いものに巻かれろ」みたいな関係を築く一方で、今の人たちは「共存的」「協調的」のような関係性を望む、というのが共通して書かれていたということが思い出されたんですよね。
この昔の「やさしさ」も言い換えれば他者との「同質化」を図ろうとするもので、現代の方は、「同質化」ではないみたいな。なんなんだろうね。というかある意味「同質」である状態がデフォルトのようになってしまったみたいな?でも、ふと思ったけど、自分と他人が100%重なることなんてないのに、「同質化」を望むって、そもそも無理だなと。仮に、同質になれたと錯覚したところで、結果自分と他人が違うのだから、「同質化したいけどできない」みたいなジレンマに陥って、疲れるよね*。だから「同質化」から抜け出すのは至極全うだなと考えた。
*そもそも同じになれないことを理解して、同情するからこそ「やさしい」のか…?
現代の”やさしさ”における「お互いを傷つけないこと」と「共存的」もなんとなく合点が行くかな~と。相手を傷つけたくない、そして自分も傷つかない、これを達成できるのは、「あえて傷をつけるのような事はせず、”やさしく”いること」だよね。まあ、そもそも誰とも関わらない方が良いんだけど、そうはいかないのが現実。”やさしさ”を意識して、お互いの領域を侵すことなく、自分とは異なる存在と「共存」していこうとする。でも、個々人の「やさしさ」の軸が異なるから「共存」するにも支障が出てくる。うーん、大変だ。
とっても矛盾をはらんでいるけど、人間って「やさしく」ありたいんだね。
大平健(1995)「やさしさの精神病理」岩波新書.
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