2021-1-16
一週間、経つのが早すぎる。
毎日は無理でも
せめて3日に1度は書ければ…
と思う気持ちには
とてもじゃないけど追いつけなくて…
一年が52-54週なら、
今年の残りは50週
一週間に更新が1度なら、
今年の目標更新数は50回
にしておこうかな…
(おーい、少なすぎるよーと、心は叫んでいるけれど…)
さて、今日のYogi Teaのお告げは…
(知友がそう呼んでいた笑)
あぁーやめて…
重すぎる…
今はそんな気分じゃないの
もっとどんよりしたいのよ
(闇に包まれたい時間だし?)
とてもじゃないけど
明るくなれそうにないって
ときにかぎって、
底抜けの明るさで
全人生肯定観念論を展開されても
困るし、もう
全然助けにならないわ!
などと心で罵ったりして。
(8割がた救われてるのに、薄情なやつ)
あまりに正論で
「すき」や「ま」がないのは
もはや正論ではない
はいー決まったー
(今決めた)
いや、違うな…
(ここから独白に入ります)
This life is a gift.って
間違いないの。
100%わかって
100%理解できてるのに
そうとは思えない私がいるのも
100%事実であって、
そうだとすると
This life is a gift.の問題は、
A=Bであることを述べることで
A=Cである可能性を背景に押しやってる
ことにあるのでは。
This life is a gift.に
辿りつくまでに
幾たびも傷ついてきたのに、
そのすべてをひっくるめて
全部まるごと
This life is a gift.だなんて
あんまりで、
This life is a giftなどと
とてもじゃないけど
思えない人の気持ちは、
どれほど遠くに
押しやられてしまうのだろうか…
ということ。
「A=Bであることを述べることで
A=Cである可能性を背景に押しやってる」
とは、
一方で、
「A=BはA=Cでもあって、
A=Bは、Aの一つの側面にすぎない」
ということを、了解しえないのはなぜか
という問題でもある。
like, a kind of, a sort ofのような
ぼかし表現をともなって
A=Bの確からしさの程度をさげて、
了解を得やすくすることもできる。
けれど、そうすると抽象さが増して、
AとBのつながりは不鮮明になる。
その意味で、
何を取るかは多分に政治的・方略的な問題になる。
つまり、
A=Bということで、
A=C(やA≠B)を排除してしまう
(と思われる)事態(≒リスク)が
生じうるとしても、
それでもなお、A=Bという価値がある
と判断された上での
A=B、
This life = a gift.
なのだ。
This life is a gift.のことばの重さは
そのことばの「価値づけ」
(をしてきた人々、を支える人々)
の重さだったのかもしれない。
このことは、
ことばを以て何かについて
述べようとすると
大なり小なり、生じてしまう
永遠のテーゼでもある。
別の言い方をすれば、
ことばの限界。
けれども、ことばは、
神経細胞(ニューロン)から神経細胞へと
神経伝達物質が送られることの
繰り返し、と連なり、
すなわちニューロンネットワークの発露
であるから、
「ことばを以て何かについて述べようとすると
大なり小なり、生じてしまう
(多分に政治的・方略的な)了解の問題」
はそれこそ、ニューロンネットワークの多様さ
つまり、
ことばを生み出す関係の固有性、
置き換えられなさを示している
といえるのではないだろうか。
この神経細胞の伝達を「データ」として蓄積し、
ニューロンネットワークを
検証することになれば、
ネットワークの強弱によって
価値判断を生み出す
に違いなく、
そうなれば、ネットワークの微弱なものは
統計的には捨象され
「ノイズ」とみなされるだろう。
そのネットワークこそが、
その人にとって「固有な」もの
であったとしても。
だからこそ、
だからこそ、
この了解しえなさを、
あるいは
了解できたとしたら、なぜできたのかを、
問うこと、疑うこと、
「ことば」にすることが、
目には見えず
耳にも振るわず
手でも触れず
測りもしえない
「ことば」を生み出す関係の固有性、
置き換えられなさの発露を
唯一のものとして扱う
一つの術(ars)なのだ。
(先達たちは、これを「道」と捉えてきたんだよね?)
「贈り物と頂きモノ」で書こうと
思っていたことから
途方もなくかけ離れてしまったので、
ひとまず第一弾として、
第二弾は、またこんど。
yuko / כלב
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