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贈り物と頂きモノ(2)

2021-01-23

キャベツを乳酸発酵させる「ザワークラウト」

一玉まるごと。

つくりながら2週間後に思いをはせて…

2週間後のわたしは、

2週間前のこの時に思いをはせる…

「いただきます」

のことばは、自然と作り手とを一体として

まるごといただくことを意味していると思っていた。

そこにはもちろん、見えない働き手である

乳酸菌やその他の無数の菌も含まれて。

ふと、

その「まるごと」とは、

「時間」なのではないか、との

思いが過ぎる。

いただいているのは「時間」なのか、と。

2週間前と2週間後をつなぐ「時間」

2週間前よりさらに向こう、

キャベツを育て、収穫し、出荷するまでの「時間」

そのまたさらに、今の形のキャベツになるまでの

種がくりひろげる、膨大な「時間」…

そのような「時間」のなかで、

贈り物と頂きモノ、

その事成り(異なり)は、

並列と対峙の関係

といいかえられるのではないか、と考えてみる。

①のように、

カコからミライへと、

贈り物が「濃青」であれば、

頂きモノは「水色」で、

時間軸に対して

並列し、並行する贈り物と、

時間軸に対して

対向し、逆行する頂きモノ。

どちらを向いているかでみれば、

②のように、

贈り物は、ミライを(濃青)

頂きモノは、贈り物が渡されるまでの時間、すなわちカコを(水色)

それから、贈り物をいただく時間(イマ・ミライ)を(黄色)

ミライへ向かう時間には、

きっと贈り物の時間も含んでいて…

こんな落書きをしていたら、

「時間」を直線と捉えていることに気付く…

2週間前と2週間後をつなぐ「時間」

2週間前よりさらに向こう、

キャベツを育て、収穫し、出荷するまでの「時間」

そのまたさらに、今の形のキャベツになるまでの

種がくりひろげる、膨大な「時間」…

これらは、

本当に「直線の時間」なのだろうか?

「この前はありがとう」

「前向きに…」

といった

ことばをポツポツ思い浮かべてみれば、

「前」や「後」にはどうも

二重の意味がありそうで…

時間を直線的に捉えて、

贈り物と頂きモノを並列と対峙の関係で捉えたのでは、

この二重の意味(カコとミライ)を、

(②でいったら濃青と水色と黄色のばらばらな「向き」を)

うまく示せない…

だとしたら、

③みたいに考えられはしないだろうか…

贈り物の時間と

頂く時間の関係は、

「円環」しているのだと。

そうすると、

直線的な時間と、

円環的な時間はどう関係するのだろうか…

④みたいに、

コイル状にながれる電流には

磁界が生成するような

二次的な生成物としての「時間」や

⑤のように、

輪切りの完結する円形の

(贈り物と頂きモノの「輪」の出来事)

中心を貫通するものとしての「時間」も

あるのかもしれない。

そうなったとき、

直線的な時間は⑥、⑦のように、

その影を潜める。

社会学者の真木悠介(見田宗介)は、

『時間の比較社会学』のなかで

そのような直線的な時間があらわれるときを、

次のように述べている。

「不可逆性としての時間が切実なものとなるのは、反復する自然の時間性から剥離する一回性としての人間的時間が自立してくるとき」(真木 2003[1981] : 193)

つまり、反復する自然の時間(円環でも円形でも)から、

一回性としての人間的時間がはがれ、

それが一つのまとまりとして意味を持つとき、

不可逆性としての時間

すなわち遡ることが不可能な、

一方通行の直線的な時間が

切実なものとなるのだ、と。

あわせて、不可逆性としての時間、

その数量化かつ実体化された

観念としての時間が生じる過程には、

「<共同態ー(ゲマインシャフト)>」の生きられる共時性の外部に、自立する<個体性>の相互のあいだの集合態(ゲゼルシャフト)的な連関ーー 客観化された相互依存の体系を展開する世界」(ibid., 195)

があると述べている。

つまり、

例えば未来に「死」をみとめ、

そこへと向かう形で

「生」を捉えるような時間感覚の把捉

(直線的な時間、ゆえに「生」を空しいと感じるの)は、

反復する自然から「一回性の人間」を切り取ったとき

を前提とするのであって、

そのような切り取りが可能になるのは、

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」の外に

「個」を核とする組織構造的な集合としての社会(ゲゼルシャフト)をみたとき、

つまり、

相互依存の体系を、客観的に見る世界があるからこそなのだ、と。

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」とは、

おそらく、

円環的あるいは円形的な

贈り物と頂きモノの行きつ戻りつの

往来としての「生」…

「第一に、現在の生をそれじたいとして愛する実感(センス)を失わないかぎり、そして第二に、未来がある具体性のうちに完結する像をむすぶかぎり、すべての未来がそのかなたに死をもつと言う事実といえども、われわれの個体や人類の生涯を空しいものとはしない。」(ibid., 309)

贈り物と頂きモノの円環・円形としての

出来事とは、つまり、

⑥’や⑦’のように、

時間は、「現在」をはなれて、存在するのではなく、

それは実体化も物象化もされず、

無限でも抽象でもないものであることを(ibid., 308-309)

具体的かつ有限の出来事から

明らかにする。

そうすることで、抽象化され

実体化された時間(クロノス)とは別な

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」

ー生きられる「時間」(カイロス)ーを枠づける。

贈り物と頂きモノの関係において

立ち現れる「時間」には、

-生きられる「時間」の枠付け-

という、

そんな本質が秘められているのかもしれない。

yuko/כלב

真木悠介(2003[1981])『時間の比較社会学』岩波書店.

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