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Archives for November 2020

コミュニケーションについて。

 最近、嬉しいことに、私の親友のYさんから「私が書いた文章を読んで」と頼んできました。しかし悲しいことに、文章の内容についてお互い語り合いをしていたのですが、なかなか会話が進まず、どこかに食い違いがあると違和感を抱いていたのです。「なんでだろうなぁ」と悩んでいて、もちろん、その日何も分かち合うことも、文章の内容に対する理解も深まることがなく終わったのです。

 数日後に、再度その友人が語った話の内容を思いだしながら考えてみると、ふと、自分は相手の場に入っていないことに気が付きました。もしかしたら、これが原因で話が進まなかったのかもしれないと悟りました。普段その友人と私が関心を持つ分野も異なり、そのせいで話し合いの際、私は何とか自分が知っている分野の中に持ち込んで話を進もうとするのです。そうすると、根本的な食い違いが生じ、当然話が進まないわけです。このままじゃダメだと、慌てて何冊のその分野の本を買い、何とかその友人と同じ地平に立とうと努力しました。次の話し合いのための準備として。

 ちっぽけなことなのですが、そういうところに出るんですね。帰納と演繹は認識における基本的な方法ではあるが、誰もそれに頼って、昔の経験と照らし合わせながらやってきたのです。しかし、他者とコミュニケーションをとるとき、それだけで良いのかと、それだけで理解できるのかと。全身全霊をもって、没入することこそよほど大事なのではないかと思うようになりました。何でもかんでも「私の経験からして~」、「私が知る限り~」、「私の研究分野では~」という発信ではなく、相手の話に対して「なるほど」と納得してから、相手の場に立ってから、初めてコミュニケーションが成り立つのではないでしょうか。

 皆様はどうお考えですか?普段、同じことをしていませんか?

モンペデビュー

友人が紹介してくれた本の巻末の座談会に登場したお姉さんの発言に深く共感、まんまと信者になり、読み終えた数分後には娘の通う学校に電話をかけていた。我ながらミーハー、影響を受けやすく、流されやすく、単純。

海外と日本の子育てについてオープンに語り合う内容で、例えばこんなふうであった。

──外国のいいものを見ちゃったために、日本の保育園や学校に満足できなくなっちゃってる

!
そう!

帰国して約一年、初めのころ、違和感を感じていたいろいろを(調子に乗った海外帰りと思われたくなくて)周りに溢すことができず、なんとなく忘れていたけど、まさにそうだった

──海外の親たちはみんな学校に物を言えるのだということを知ってしまったから、私も日本で気になることを校長先生に言ったら、まわりからまるでモンスターペアレントみたいに言われて、

そう!
あの頃は学校でのことで気になることがあればいつでも先生にメールでも電話でもできて、ピックアップのときにそのまま一時間くらい話しちゃう、なんてこともあって。(この先生とはいまでもたまにメールのやり取りをしている)
モンペなんて概念、あったのかな。
担任の先生が子どもに大声で叱ったのが気に入らず、校長先生に掛け合って先生を辞めさせたママもいたし(さすがにひいたけど)、そこまでしなくても、担任の先生に言えない、あるいはもっと大きな要求のときは、校長に言ってみれば?と周りにアドバイスをされた。
学校には常に対話の機会が開かれた空気感があって、校長はロビーでママたちと談笑しながらコーヒーを飲んでたり、年一回の”odd socks day”には子どもたちと一緒になって変てこな靴下で校内を歩き回るような距離感の近い存在で(間違って普通の靴下で登校しまって泣いている男の子のために、誰かこのクラスで良いアイディアのある子はいるかしら?と声をかけて、すかさず自分の履いている変な靴下を片方脱いで投げてあげるクラスメート、それを見て「だからここの校長って大好き」と安堵し微笑むママ、という光景をいつも思い出す)、わたしの知っている日本の校長先生とは全然違っていて。

──一方、ノルウェーは、民主的な保育をしていこうっていうことで、親の意見を聞く場が設定されている

当たり前だわ!
「先生たちが提示してきた保育のあり方に、親が乗っかるだけ」の現場なんか日本だけ!!

───親が好きな保育士雇って、自分たちで施設のレイアウトとかも全部決められて、保育とか子育て環境を良くしたいと思う親の気持ちが叶えられているんです

え、
まじ?
最高、それがいい

今から学校を創るのは無理でも、せめて子どもの生活をより良いものにするために意見するくらい、当たり前だよね?

むしろ先生に新しい気付きを与えるという点でもすごく意味のあることなのでは?

え、ていうか、みんなもほんとはこれ、おかしいって思ってるけど、口にしてないだけだよね?

加速度的に気持ちが高揚して、
もう絶対いま電話したほうがいい!
少しでも早いほうがいい!

娘の入学時から、子どもに何もメリットがないのに変われない、誰も得をしないのに、恐らく誰も問わないであろう「管理責任」を学校が負うことになるのを避けるため、無意味な「当たり前」を(文科省からの通知を受けているにも関わらず!)何十年も続けていることに違和感を感じていた

伝えたかったことの要点を頭の中で雑にまとめて

「夕方の忙しい時間帯にご迷惑かしら」と1%くらいは先生を気遣ってみたりしつつ

勢いに任せて、お電話をかけた。

晴れて”モンペ”デビュー、したのだった。

池本美香・秦かおり・岡本多香子・井出里咲子「座談会 子育てをめぐる社会はどうあるべきか」(2014.9.2実施)秦かおり・岡本多香子・井出里咲子(2017)『 出産・子育てのナラティブ分析: 日本人女性の声にみる生き方と社会の形』大阪大学出版会、pp.221-256.

絶望講座をはじめます。

2020-11-26

この講座を受講できるのは、絶望している人だけです。(絶望していない人は速やかにお帰りください。)

この講座では、絶望していることへの価値判断は行いません。(それはご自身で、すでに嫌でもやられていることでしょうから。)

ここでは、絶望していたかもしれない作者が書いた本を輪読します。

本講座を開講する目的は、絶望している「わたし」の可視化、文字化、多元化です。

したがってこの講座は、受講者の絶望を癒すものではなく、講座案内人にはそのような能力もスキルもありませんので、期待しないでください。

各回の輪読書籍は以下の通りです。

なお、選書は講座案内人の独断ですので、選書内容と「絶望」の濃淡はご自身で判断してください。

  • 1週目:與那覇潤『歴史がおわるまえに』亜紀書房、2019年.
  • 2週目:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(セバスチャン・ブロイ・河南瑠莉訳)堀之内出版、2018年.
  • 3週目:酒井隆史『暴力の哲学』河出文庫、2016年(単行本は2004年)
  • 4週目:ウォルター・ベンヤミン『暴力批判論』(野村修編訳)岩波文庫、1994年.
  • 5週目:新共同訳聖書「ヨブ記」
  • 6週目:ハンナ・アーレント『暗い時代の人々』(阿部斉訳)ちくま学芸文庫、2005年.
  • 7週目:ミヒャエル ・エンデ『はてしない物語(上・下)』(上田真而子・佐藤真理子訳)岩波少年文庫501/502、2000年.
  • 8週目:トルストイ『人生論』(原卓也訳)新潮文庫、1975年.
  • 9週目:デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』(高祖岩三郎訳)以文社、2006年.
  • 10週目:シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』(冨原眞弓訳)、岩波文庫、2018年[1934年].

毎回の講座では、ご自身の考察を読み上げていただきます。

本文全体についての所感でも、本文中で気になった箇所を取り上げて考察を付け加えるのでも、何でも構いません。

ただし、必ず1度は何かを発してください。(ことばにならない音であっても。)

10週を終えたのち、ご自身の「絶望」について、1つ(以上)の書籍を取り上げて批判的に考察し、

A4で5-10枚にまとめて提出してください。

それでは、絶望講座をはじめましょう。

本講座では扱わなかった本:

  • H・S・クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』(斎藤武訳)岩波現代文庫、2008年.
  • トルストイ『イワン・イリッチの死』(米川正夫訳)岩波文庫、1973(1928)[1884-1886]].
  • 國分功一郎『暇と退屈の倫理学(増補新版)』太田出版、2015年.
  • 酒井隆史『暴力の哲学』河出文庫、2016年(単行本は2004年)
  • デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳)岩波書店、2020年.
  • 大澤真幸・國分功一郎『コロナ時代の哲学』オー、2020年.
  • 斎藤環・與那覇潤『心を病んだらいけないの?』新潮選書、2020年.
  • ショーペンハウエル『自殺について(他四篇)』(斎藤信治訳)岩波文庫、1979年.
  • ソレル『暴力論(上・下)』(今村仁司・塚原史訳)岩波文庫、2007年[1908年].

(この講座はフィクションですが、紹介した書籍は全て実在のものです。)

『不思議な羅針盤』

 

 

 

早春の庭に出て、その目立たない花が視野のどこかに入るたび、小さな宝石箱を隠し持っているような気分になった

 

 

─梨木香歩 「2  たおやかで、へこたれない」─

 

 

 

『詩句のある静物』

其処に在るてふ事の不思議さよ

実にひれ臥して祈らんか

されど彼は答へはすまじ

実に只描け

在るてふ事を解き得る迄

 

 

(1918, 関東大震災で焼失)

『私たちの星で』

「違う文化を拒絶せず黙って受け入れた経験を、たくさん持てば持つほど、ひとの「寛容」はどんどん鍛え抜かれていき、そのことがきっと、私たちを「同んなじ家族」(趣味嗜好が違うおじいさん世代、孫世代が互いに干渉しない、でも互いの存在は認めている、という理想の──)にする、という観測は、あまりにもナイーヴな楽観主義でしょうか。」(p.76)

梨木香歩「11 あれから六万年続いたさすらいが終わり、そして新しい旅へ」

 

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