最近、嬉しいことに、私の親友のYさんから「私が書いた文章を読んで」と頼んできました。しかし悲しいことに、文章の内容についてお互い語り合いをしていたのですが、なかなか会話が進まず、どこかに食い違いがあると違和感を抱いていたのです。「なんでだろうなぁ」と悩んでいて、もちろん、その日何も分かち合うことも、文章の内容に対する理解も深まることがなく終わったのです。
数日後に、再度その友人が語った話の内容を思いだしながら考えてみると、ふと、自分は相手の場に入っていないことに気が付きました。もしかしたら、これが原因で話が進まなかったのかもしれないと悟りました。普段その友人と私が関心を持つ分野も異なり、そのせいで話し合いの際、私は何とか自分が知っている分野の中に持ち込んで話を進もうとするのです。そうすると、根本的な食い違いが生じ、当然話が進まないわけです。このままじゃダメだと、慌てて何冊のその分野の本を買い、何とかその友人と同じ地平に立とうと努力しました。次の話し合いのための準備として。
ちっぽけなことなのですが、そういうところに出るんですね。帰納と演繹は認識における基本的な方法ではあるが、誰もそれに頼って、昔の経験と照らし合わせながらやってきたのです。しかし、他者とコミュニケーションをとるとき、それだけで良いのかと、それだけで理解できるのかと。全身全霊をもって、没入することこそよほど大事なのではないかと思うようになりました。何でもかんでも「私の経験からして~」、「私が知る限り~」、「私の研究分野では~」という発信ではなく、相手の話に対して「なるほど」と納得してから、相手の場に立ってから、初めてコミュニケーションが成り立つのではないでしょうか。
皆様はどうお考えですか?普段、同じことをしていませんか?