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Archives for April 2021

[抜粋] 書くとは、そして読むとは

「書くという行為は、やがて耳を澄ますという行為になる。それも、聞こえないものに耳を澄ます。作品はどうも性能のよろしくない受信機みたいなものであります。かなたへ耳を澄ませば、かなたもこちらへ向けて耳を澄ます。これはヴァレリーの、確かナルキソスの詩の中にある言葉です。ナルシスといえば水鏡です。視覚的には鏡ですが、聴覚的には谺と言えるでしょう。谺の沈黙というアイロニーを含むことだと思います。ただ、その沈黙が、聞こえることの始まりか、言葉の始まりなのかもしれません。その境地にたどり着くのは無理なようでも、接近したいとは思っています。要するに、作家として、いまだに埒が明かない現状であります」(古井2012: 78)

「今、人が政治家や実業家に持っている不満は、突き詰めると、文学の欠如に対してではないか。それは、詩を読めとか、小説を読めということではありません。不確定なものへの関心のことです。なおかつ、何か確かなものを見つけたい。しかし、それはほぼ見つけられないものであり、それを求める心だけが確かなものなのではないか。そこが文学だと思うんです。[…]書くという行為には二通りあると思います。書くことがあるから書く。これが表でしょう。その裏に、書くことがなくなったところから書くということがある。書くことがなくなったというのは、今まで自分の馴れている世界、あるいは世界に通用する観念連合や、価値の軽重や、そのようなものがほどけてしまったところに生じます。実際には、書こうとして、一行も書けなくなるような境地がある。私にはよくわかるんです。いつもそこにさらされている。そこにさらされたとき、その奥から何かが見えてくる。そういう書き方があるんですね。」(古井2012: 80-81)(平成二十四年十月二十日 東京大学文学/「群像」平成24年十二月号)


「書くことは、言葉を花開かせる営みである。語り得ぬコトバを、書くことによって言葉にすることで、私たちは自分の心のなかに眠っている宝珠を発見する。」(若松 2016: 152)

「書くとは、自らの考えていることを確かめる行為であるよりも、書き得ない何かと邂逅する営みなのだろう。」(若松 2016: 161)


「書くとは言葉の器をつくるということだ。その言葉の器にわたしがとどめたいとねがうのは、他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ。」「自分の時間へ」(長田 2015: 392)

「書くとはじぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声を書き留めて、言葉にするということである。」『奇跡ーミラクルー』(長田 2015[2013]: 652)


「読むことは、本にのこされた沈黙を聴くことである。」「聴くという一つの動詞」(長田 2015: 529)


「ことばって、なんだと思う?けっしてことばにできない思いが、ここにあると指すのが、ことばだ。」(長田 2015: 529)


「日本人にとっては、ちょっとわかりにくいことだと思うけど、「言う」ということ「思う」ということは古代ギリシャ語ではイコールでつなげる。それで、小田実さんとしては「発言と言うのは、思索、考えることと直結するんだ」とおっしゃるわけね。確かに古代ギリシャ語には近代の西洋語にある「思う」、think,フランス語はpenser、ドイツ語はdenken、それと全く等しい言葉はないようなんです。「認識」というのは、むしろ感受と言う方向になり、「思う」というような能動をあらわすとなれば、「言う」という言葉なんですね。lego、これは現在形一人称で不定詞はlegeinです。この「言う」には、二系列の意味があるんです。一つは「言う」、もう一つは「思う」。その名詞はlogosです。これも二系統あって、一つは「言葉」、もう一つは「論理」、ことわり。これは「考える」という意味の方向です。「はじめに言葉ありき」はlogosです。「言う」と「思う」を両方含んでいる。」(古井2007: 85)

「要するに言語ということは、いわゆる言葉の乱れを正すとか、そういうことではなくて、人は話す時、その都度、形にならないある思いのなかから一つの声を聞き分けて、それを文字にし、意味にし、意味を組み立てて、文章にしていく。そういうことを、書くにつけ読むにつけ話すにつけ思うにつけ、やっていると思うんです。人間という動物は言語の発明者でしょう。ほとんども形もないカオスから、僕は最初に声だと思うんですね、音声、それが言葉となり、意味となる。それは古今東西、人がものを話すたび、思うたびにやっていることです。その中で、特に日本人は「変換」というものを踏まえて難しい立場になっている。冒頭で、ギリシャ語では「言う」ということと「思う」ということがつながっていると言いました。「ロゴスは言葉であり、思いである」と。聖書で言う「はじめに言葉ありき」とは、実は我々が日常、一日のうちに何度も何度も繰り返していることではないのか。ですから、どうかというと、まあ、せめて身体は丈夫にしておきましょう。どうも長いことご清聴ありがとうございました。」(古井2007: 104)


古井由吉(2007)「小説の言葉」古井由吉(2020)『書く、読む、生きる』草思社、pp.82-104.

古井由吉(2012)「翻訳と創作と」古井由吉(2020)『書く、読む、生きる』草思社、pp.67-81.

長田弘(2015)『長田弘全詩集』みすず書房.

若松英輔(2016)『言葉の贈り物』亜紀書房.

こどもは…

「こどもは、たからもの

こどもは、きぼう」

考える・恋しさ・こども

2021-04-12

お風呂の中で、

いろんな話をした。

忘れたくないので、出た後にメモに吹き込んでもらい…

2回目だけど、原稿や打ち合わせは一切なしのワンテイク。

途中から、パーソナリティーになりきり。

次回も(?!)おたのしみに!

2分半のおはなし

【引用元】

『おばあちゃんがおばあちゃんになった日』(長野ヒデ子さく、童心社、2015年)

【おまけ】

保育園で、こんなうたもならったとのこと…

たった10秒ほどが、すばらしい。

はてな

はてな

ほんとかな

ぐるりとまわして(頭を一周させる)

うん、そうだ

はてな、はてな、ほんとかな?

【おまけ写真】

お香の煙がたまらん①
お香の煙がたまらん②

「またいつか、ご縁がありましたら…」

先日、朝一で仕事を終えて、

カフェでモーニングセットを頼んで読みものをしていた。

ふと気がつくと、

隣の隣にすわっていた初老の女性が、

スマホを片手にそーっとこちらへやってきて

「ちょっといいですか?」と。

何が始まるのかな、と

何かの勧誘かな、と

ほんの少しだけワクワクしていたら

女性は、

「今日、孫の入学式でしてね、ここから見られるって教えてもらったんだけど…」と

スマホの画面をこちらに見せた。

コロナのため保護者とその家族向けに

入学式の様子がYouTubeでライブ配信されているというのだ。

なるほど、リンクを開けば今始まったばかりと思われる入学式が

目の前にあらわれた。

下の方に広告がチラチラと出てくるもので、

他のボタンを押すつもりでなくとも

ほんの少し触れただけで広告や次の動画に移ってしまい

その女性は途方に暮れていたようだった。

確かに、下の方にチラチラ出てくる広告は邪魔そのもので、

それでも女性はしっかりスマホを握りしめ

いつ映るとも知れない孫の姿を追いかけていた。

(しばらくして、全画面にすればいいのだと思い出しあわてて、それをお知らせした。)

小さな画面からお孫さんのお顔まで見れたかどうかは

わからないものの、その女性は優しそうな笑みを浮かべて

「どうもすみません」

と私に繰り返した。


再び読みものに戻り

しばらく経つと、目の前にトレーを持った人の気配が。

両隣の席は埋まっていたので、

あれ?お店の人かな?と思って見上げると同時に、

「これ、たべて」と

読んでいた本の上にポンっとサンドイッチが。

紙コップに注いだ水も机の端に置いて。

その仕草の

あまりに自然で、

あまりに慣れた様子に私の目は女性の手元に吸いよせられた。

「えーいいんですかー?!」

「いいのいいの、食べてちょうだい」

さらりと言って、席へ戻られた。

そのサンドイッチは、素直にありがたかった。

前日の夜から何も食べていなかったから、

モーニングのクロワッサンだけじゃ物足りないと思っていたからだけでなく、

「どうもすみません」と恐縮されていた女性が

もう恐縮することがないと思うと

心が軽くなった気がして、ありがたかった。


「贈与」と「交換」の関係が

しばらく前から気になっていた私は、

最近読んだばかりの新書の一冊を思い出していた。

「贈与という現象の最大の問題は負債にあります。物をあげるという行為は、同時にもらった側に負債の感覚を与えてしまうのです」(中島2021: 85)

そう、女性に私が与えてしまったであろう負い目を

解消する術を女性の方から私に与えてくれたことに。

なんとなしのわだかまりがサンドイッチに掬われた気がしたのだ。


中島(2021)では続いて、人類学者マーシャル・サーリンズの負債の議論を取り上げ

サーリンズが分類した3つの互酬性について説明している。

せっかくなので、女性と私におきた出来事もこの互酬性の概念から振り返ってみたい。

サーリンズのいう3つの互酬性は以下の通り:

(1)一般的互酬性:親族間で食べ物を分け合うなど。返礼はすぐに実行されなくてもよい

(2)均衡的互酬性:与えられた物に対して同等のものがかえってくることが期待される。返礼は決められた期限内に返済されることが期待される

(3)否定的互酬性:みずからは何も与えないか、少なくして、相手から最大限に奪おうとする。詐欺や泥棒など

この3つを提示した上でサーリンズは、

一般的互酬性に潜む「権力の萌芽」を指摘するという(ibid., pp.84-85)。

(中島(2021)の議論はこの後、返礼の相手が誰か(本人であれば「直接互恵」、本人以外の誰かであれば「間接互恵」)という点や、贈与から交換へと関係性が変わること、はじめから「期待」をしていないという前提や、そのような「贈与」の根源には自分を超えた何かによる「業」が潜んでいるという仏教概念を提示しながら「縁起的現象としての「私」」(ibid., p.99)へと展開していく)

私が心が軽くなったと感じたのは、

「どうもすみません」を繰り返す女性を前に、

私の「贈与」がその実体以上に肥大化し

女性に肥大化した「負債」を追わせてしまっていた(と私が思う)事態に対して

女性が(2)「均衡的互酬性」へと枠付直してくれたことに起因する。

「贈与」の最中、それも私自身は「贈与」であるとは全く思わず

むしろ、「呼びかけられたから、できることをやったまで」というある種の

私の中の利己的な美意識に動かされただけで、

「互酬性」の規範など1mmも頭をかすめていなかった出来事がもたらした「負債」を

解消する手立てとして「均衡的互酬性」という規範が持ち込まれたこと、

これにより私と女性のあいだの「贈与」による関係が

「交換」の関係へと変化したことで、救われた気がしたのである。

こう振り返ると、サーリンズの(1)〜(3)の互酬性の議論は

「物」と「物」の交換を前提としており、

そこに「言葉」が加わることについては、どのように議論されているのだろうか?

と疑問が湧いてくる。

「言葉」それ自体が持つ「互酬性」の規範意識が

どのように共有されていたのかがわかれば、「返礼」の概念もかわってくるのだろう。

この「言葉がもつ互酬性の規範意識」という考え方は、

「贈与」と「負債」に関する議論の水脈を掘り起こし、

「支配」と「暴力」の議論へと展開する一つのきっかけになりそうな…。


サインドイッチが置かれてから30分ほど経ったころ

「〇〇ちゃん、シャツ出てるよ」という声が聞こえてきたので、

顔を上げてみると

入学式から戻ったばかりのお孫さんとお母さんがそこに。

お母さんの「お世話になりました」に、

「いえいえ、ご入学おめでとうございます」と

お互い頭をさげて。

帰り際、女性は再び私に向き直り、

「ありがとうございました。またいつか、ご縁がありましたら…」

と頭を下げてお店を出られた。

後に続くお孫さんは、さりげなく女性を気遣っていて

そのまなざしから、

二人がこれまで大切に培ってきたであろう

柔らかな時間とその暖かさが

こちらにまで伝わってきた。

二人の姿を目で追いかけながら、

サンドイッチを頬張った。


【追記】

ここまで書いて、マーシャル・サーリンズが月曜日(2021/4/5)に亡くなられたと知る(「A Great Tree Has Fallen: The Passing of Marshall Sahlins」 by David Price, April 9, 2021)。

そして去年亡くなったデヴィッド・グレーバーはサーリンズの教え子で、サーリンズはデヴィッドの追悼文を書いていたことも(「追悼 デヴィッド・グレーバー(1961-2020)/マーシャル・サーリンズ」以文社)。

【参考文献】

中島岳志(2021)「利他はどこからやってくるのか」伊藤亜紗・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎『「利他」とは何か』集英社新書、pp.65-107.


大学の未来は…

 

「私たちの大学の未来は、もし大学にまだチャンスが残されているのだとすれば、大学の根源的精神を再び蘇生させることにこそかかっているのであります。半世紀この方、こうした精神は、次第に衰退の一途をたどり、ついには最も深刻な崩壊を見るまでに至りました。(ナチ政権下の)十二年というものは、大学の道義的破壊を押し進めました。今こそ、教授陣も学生たちもこぞって自らの行為への熟慮を迫られる瞬間なのであります。すべてのものが揺らいでしまっているところでこそ、私たちがどこに立ち、また私たちが何を求めているのかを、私たちは、私たちの立場から知ろうと欲するのであります。」(p.3)

[…]

「研究の意味と創造的な歩は、それが認識活動の全体において、その生き生きとした関係を養い育てる時にのみ維持され得る」(p.73)

「最高の訓練とは、完成した知識を習得することではなく、むしろ学問的な思考へと諸器官を発展させる[…]問うことの方法を練習しなければならないのであり、専門に応じて、どこかで、究極の根拠にまで達しなければならない」(p.74)

 

カール・ヤスパース(1999[1946])『大学の理念』(福井一光訳)理想社; cit. in 吉見俊哉(2020)『大学という理念絶望のその先へ』東京大学出版会、pp.232-233

 

「生きるとは…」

「生きるとは、何かに向かって放たれることであり、目標に向かって歩むことである。その目標は、私の道のりでもなければ私の生でもない。それは私が私の生を賭ける何ものかだ。したがって、それは私の生の遥か向こうにあるものなのだ。もし私が、私の生の内部だけで自己中心的に歩くつもりなら、進むこともなく、どこにも行けないだろう。同じところを堂々巡りするだけだ。これこそが迷宮であり、どこにも行き着けない道、自己の中で道に迷い、まさにおのれの内部を歩き回るだけの道なのである。」(p.249)

[…]

「支配するとは、二重の効力を持っていることなのだ。つまり誰かに命じるという一面と、その誰かに何かを命じるという一面である。そしてその命じる何かは、つまるところある企て、ある歴史的な大きな運命に参画せよということである。」(p.250)

[…]

「創造的な生は、高度な精神衛生の状態と大いなる品格、そして尊厳の意識を駆り立てる不断の刺激といったものを要求する。創造的な生とはエネルギッシュな生である。それは以下の二つの状況のいずれかにおいてのみ可能なのだ。すなわち自身が支配する者であるか、あるいは支配の権利を存分に認められた者が支配する世界に生きるか。この二つのいずれか、つまり支配か服従かである。しかし服従することは、我慢をして品位を落とすことではなく、むしろその反対に支配する者を尊敬し、命ずる者と連帯しながら、また戦意高揚の中はためく旗の下に馳せ参じることなのだ。」(p.253)

「14  世界を支配しているのは誰か」(pp.223-314)

 


 

「一つの思想を持つとは、その思想にこめられた理性を所有していると信じることなのだ。つまり一つの理性、理解可能な真理でできた一つの世界が存在すると信じることである。思索する、意見を述べるということは、そうした要請に訴えること、その要請に従うこと、その法規や裁定を受け入れること、要するに私たちの考えの理由が議論されるときの対話こそが共生のための最良条件であると信じることなのである。しかし大衆化した人間が議論を受け入れたなら、自己喪失に陥る。そして自分の外にあるその最高審判を尊重すべきとの義務を本能的に拒否するのだ。

そのためヨーロッパにおける「新しい」こととは、「議論にけりをつける」ことであり、会話から始まって学問や議会に至るまで、およそ客観的規範を尊重することを前提とする共生の形式を毛嫌いすることなのだ。ということは、規範の下の文化的共生は断念され、野蛮な共生へと退行することを示す。すべての尋常な手続きは省かれ、望んでいるものの押しつけへと一直線的に進む。先に見たように、すべての社会生活に介入するよう大衆を突き動かすのは、魂の自己閉塞性だ。それはまた大衆を介して唯一の手続きへと、すなわち直接行動へと駆り立てるのだ。」(p.152)

[…]

文明とは、力を最後の手段に留めようとした試みに他ならない。私たちはここに来てそのことを充分明確に理解しはじめている。なぜなら「直接行動」とは順序を逆にして暴力を最初の手段(prima ratio)、もっと正確に言うなら唯一の手段(única razón)にすることに基づいているからだ。暴力とはあらゆる規範の破棄を提案する規範であり、私たちの意図からその押しつけに至るすべての途中経過を削除する規範なのだ。まさに野蛮の大憲章である。」(pp.153-154)

[…]

「自由主義とはーこのことは今日ぜひ思い起こしていただきたいー最高の寛大さなのだ。それは多数者が少数者に与える権利、したがって地球上にこれまで鳴り響いた最も崇高な叫びだ。それは、敵とも、いやか弱い敵とも共生するという決意を宣言している。人類がかくまで美しい、かくまで逆説的な、かくまで優雅な、かくまで曲芸的な、かくまで反自然のものに到達できるとは、にわかには信じられないことだった。だからその同じ人類が程なくその自由主義を捨て去ろうと決意したように見えるのも驚くにはあたらない。それはあまりにも難しく混み入った試みなので、地上に根を下ろすことは無理なのだ。

まさか敵と共生するとは! 反対勢力と共に統治するとは! そのような優しさはすでに理解不可能なものになりつつあるのではないか。反対勢力が存在するような国が次第に極わずかになってきたという事実以上に、現代の相貌を露わにしているものはないだろう。ほとんどすべての国々において同質の大衆が社会的権力の上に重くのしかかり、すべての反対集団を踏みにじり、無きものにしている。大衆はその密度とおびただしい数を見れば誰の目にも明らかだが、自分と違う者との共存は願っていない。自分でないものを死ぬほど憎んでいるのだ。」(pp.155-156)

「8  大衆はなぜ何にでも、しかも暴力的に首を突っ込むのか」(pp.144-156)

 


「問題とはこれである。すなわちヨーロッパにモラルが無くなったのだ。[…]その生の体制の中心がまさにいかなるモラルにも服従せずに生きたいという熱望から成り立っているということだ。」(p.315)

[…]

「彼の精神状態はすべての義務を無視して、その理由を自らは疑うこともせずに、自分を限界のない権利の主体と感じることだろう。」(p.316)

[…]

「つまり、大衆はただ単に言ってモラルを欠いているということなのだ。つまり常に、本質的に何ものかに対する恭順の念や奉仕と義務の意識であるモラルを持っていないことに尽きる。」(p.318)

「15  真の問題に辿り着く」(pp.315-320)

 

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