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[抜粋] 書くとは、そして読むとは

「書くという行為は、やがて耳を澄ますという行為になる。それも、聞こえないものに耳を澄ます。作品はどうも性能のよろしくない受信機みたいなものであります。かなたへ耳を澄ませば、かなたもこちらへ向けて耳を澄ます。これはヴァレリーの、確かナルキソスの詩の中にある言葉です。ナルシスといえば水鏡です。視覚的には鏡ですが、聴覚的には谺と言えるでしょう。谺の沈黙というアイロニーを含むことだと思います。ただ、その沈黙が、聞こえることの始まりか、言葉の始まりなのかもしれません。その境地にたどり着くのは無理なようでも、接近したいとは思っています。要するに、作家として、いまだに埒が明かない現状であります」(古井2012: 78)

「今、人が政治家や実業家に持っている不満は、突き詰めると、文学の欠如に対してではないか。それは、詩を読めとか、小説を読めということではありません。不確定なものへの関心のことです。なおかつ、何か確かなものを見つけたい。しかし、それはほぼ見つけられないものであり、それを求める心だけが確かなものなのではないか。そこが文学だと思うんです。[…]書くという行為には二通りあると思います。書くことがあるから書く。これが表でしょう。その裏に、書くことがなくなったところから書くということがある。書くことがなくなったというのは、今まで自分の馴れている世界、あるいは世界に通用する観念連合や、価値の軽重や、そのようなものがほどけてしまったところに生じます。実際には、書こうとして、一行も書けなくなるような境地がある。私にはよくわかるんです。いつもそこにさらされている。そこにさらされたとき、その奥から何かが見えてくる。そういう書き方があるんですね。」(古井2012: 80-81)(平成二十四年十月二十日 東京大学文学/「群像」平成24年十二月号)


「書くことは、言葉を花開かせる営みである。語り得ぬコトバを、書くことによって言葉にすることで、私たちは自分の心のなかに眠っている宝珠を発見する。」(若松 2016: 152)

「書くとは、自らの考えていることを確かめる行為であるよりも、書き得ない何かと邂逅する営みなのだろう。」(若松 2016: 161)


「書くとは言葉の器をつくるということだ。その言葉の器にわたしがとどめたいとねがうのは、他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ。」「自分の時間へ」(長田 2015: 392)

「書くとはじぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声を書き留めて、言葉にするということである。」『奇跡ーミラクルー』(長田 2015[2013]: 652)


「読むことは、本にのこされた沈黙を聴くことである。」「聴くという一つの動詞」(長田 2015: 529)


「ことばって、なんだと思う?けっしてことばにできない思いが、ここにあると指すのが、ことばだ。」(長田 2015: 529)


「日本人にとっては、ちょっとわかりにくいことだと思うけど、「言う」ということ「思う」ということは古代ギリシャ語ではイコールでつなげる。それで、小田実さんとしては「発言と言うのは、思索、考えることと直結するんだ」とおっしゃるわけね。確かに古代ギリシャ語には近代の西洋語にある「思う」、think,フランス語はpenser、ドイツ語はdenken、それと全く等しい言葉はないようなんです。「認識」というのは、むしろ感受と言う方向になり、「思う」というような能動をあらわすとなれば、「言う」という言葉なんですね。lego、これは現在形一人称で不定詞はlegeinです。この「言う」には、二系列の意味があるんです。一つは「言う」、もう一つは「思う」。その名詞はlogosです。これも二系統あって、一つは「言葉」、もう一つは「論理」、ことわり。これは「考える」という意味の方向です。「はじめに言葉ありき」はlogosです。「言う」と「思う」を両方含んでいる。」(古井2007: 85)

「要するに言語ということは、いわゆる言葉の乱れを正すとか、そういうことではなくて、人は話す時、その都度、形にならないある思いのなかから一つの声を聞き分けて、それを文字にし、意味にし、意味を組み立てて、文章にしていく。そういうことを、書くにつけ読むにつけ話すにつけ思うにつけ、やっていると思うんです。人間という動物は言語の発明者でしょう。ほとんども形もないカオスから、僕は最初に声だと思うんですね、音声、それが言葉となり、意味となる。それは古今東西、人がものを話すたび、思うたびにやっていることです。その中で、特に日本人は「変換」というものを踏まえて難しい立場になっている。冒頭で、ギリシャ語では「言う」ということと「思う」ということがつながっていると言いました。「ロゴスは言葉であり、思いである」と。聖書で言う「はじめに言葉ありき」とは、実は我々が日常、一日のうちに何度も何度も繰り返していることではないのか。ですから、どうかというと、まあ、せめて身体は丈夫にしておきましょう。どうも長いことご清聴ありがとうございました。」(古井2007: 104)


古井由吉(2007)「小説の言葉」古井由吉(2020)『書く、読む、生きる』草思社、pp.82-104.

古井由吉(2012)「翻訳と創作と」古井由吉(2020)『書く、読む、生きる』草思社、pp.67-81.

長田弘(2015)『長田弘全詩集』みすず書房.

若松英輔(2016)『言葉の贈り物』亜紀書房.

大学の未来は…

 

「私たちの大学の未来は、もし大学にまだチャンスが残されているのだとすれば、大学の根源的精神を再び蘇生させることにこそかかっているのであります。半世紀この方、こうした精神は、次第に衰退の一途をたどり、ついには最も深刻な崩壊を見るまでに至りました。(ナチ政権下の)十二年というものは、大学の道義的破壊を押し進めました。今こそ、教授陣も学生たちもこぞって自らの行為への熟慮を迫られる瞬間なのであります。すべてのものが揺らいでしまっているところでこそ、私たちがどこに立ち、また私たちが何を求めているのかを、私たちは、私たちの立場から知ろうと欲するのであります。」(p.3)

[…]

「研究の意味と創造的な歩は、それが認識活動の全体において、その生き生きとした関係を養い育てる時にのみ維持され得る」(p.73)

「最高の訓練とは、完成した知識を習得することではなく、むしろ学問的な思考へと諸器官を発展させる[…]問うことの方法を練習しなければならないのであり、専門に応じて、どこかで、究極の根拠にまで達しなければならない」(p.74)

 

カール・ヤスパース(1999[1946])『大学の理念』(福井一光訳)理想社; cit. in 吉見俊哉(2020)『大学という理念絶望のその先へ』東京大学出版会、pp.232-233

 

「生きるとは…」

「生きるとは、何かに向かって放たれることであり、目標に向かって歩むことである。その目標は、私の道のりでもなければ私の生でもない。それは私が私の生を賭ける何ものかだ。したがって、それは私の生の遥か向こうにあるものなのだ。もし私が、私の生の内部だけで自己中心的に歩くつもりなら、進むこともなく、どこにも行けないだろう。同じところを堂々巡りするだけだ。これこそが迷宮であり、どこにも行き着けない道、自己の中で道に迷い、まさにおのれの内部を歩き回るだけの道なのである。」(p.249)

[…]

「支配するとは、二重の効力を持っていることなのだ。つまり誰かに命じるという一面と、その誰かに何かを命じるという一面である。そしてその命じる何かは、つまるところある企て、ある歴史的な大きな運命に参画せよということである。」(p.250)

[…]

「創造的な生は、高度な精神衛生の状態と大いなる品格、そして尊厳の意識を駆り立てる不断の刺激といったものを要求する。創造的な生とはエネルギッシュな生である。それは以下の二つの状況のいずれかにおいてのみ可能なのだ。すなわち自身が支配する者であるか、あるいは支配の権利を存分に認められた者が支配する世界に生きるか。この二つのいずれか、つまり支配か服従かである。しかし服従することは、我慢をして品位を落とすことではなく、むしろその反対に支配する者を尊敬し、命ずる者と連帯しながら、また戦意高揚の中はためく旗の下に馳せ参じることなのだ。」(p.253)

「14  世界を支配しているのは誰か」(pp.223-314)

 


 

「一つの思想を持つとは、その思想にこめられた理性を所有していると信じることなのだ。つまり一つの理性、理解可能な真理でできた一つの世界が存在すると信じることである。思索する、意見を述べるということは、そうした要請に訴えること、その要請に従うこと、その法規や裁定を受け入れること、要するに私たちの考えの理由が議論されるときの対話こそが共生のための最良条件であると信じることなのである。しかし大衆化した人間が議論を受け入れたなら、自己喪失に陥る。そして自分の外にあるその最高審判を尊重すべきとの義務を本能的に拒否するのだ。

そのためヨーロッパにおける「新しい」こととは、「議論にけりをつける」ことであり、会話から始まって学問や議会に至るまで、およそ客観的規範を尊重することを前提とする共生の形式を毛嫌いすることなのだ。ということは、規範の下の文化的共生は断念され、野蛮な共生へと退行することを示す。すべての尋常な手続きは省かれ、望んでいるものの押しつけへと一直線的に進む。先に見たように、すべての社会生活に介入するよう大衆を突き動かすのは、魂の自己閉塞性だ。それはまた大衆を介して唯一の手続きへと、すなわち直接行動へと駆り立てるのだ。」(p.152)

[…]

文明とは、力を最後の手段に留めようとした試みに他ならない。私たちはここに来てそのことを充分明確に理解しはじめている。なぜなら「直接行動」とは順序を逆にして暴力を最初の手段(prima ratio)、もっと正確に言うなら唯一の手段(única razón)にすることに基づいているからだ。暴力とはあらゆる規範の破棄を提案する規範であり、私たちの意図からその押しつけに至るすべての途中経過を削除する規範なのだ。まさに野蛮の大憲章である。」(pp.153-154)

[…]

「自由主義とはーこのことは今日ぜひ思い起こしていただきたいー最高の寛大さなのだ。それは多数者が少数者に与える権利、したがって地球上にこれまで鳴り響いた最も崇高な叫びだ。それは、敵とも、いやか弱い敵とも共生するという決意を宣言している。人類がかくまで美しい、かくまで逆説的な、かくまで優雅な、かくまで曲芸的な、かくまで反自然のものに到達できるとは、にわかには信じられないことだった。だからその同じ人類が程なくその自由主義を捨て去ろうと決意したように見えるのも驚くにはあたらない。それはあまりにも難しく混み入った試みなので、地上に根を下ろすことは無理なのだ。

まさか敵と共生するとは! 反対勢力と共に統治するとは! そのような優しさはすでに理解不可能なものになりつつあるのではないか。反対勢力が存在するような国が次第に極わずかになってきたという事実以上に、現代の相貌を露わにしているものはないだろう。ほとんどすべての国々において同質の大衆が社会的権力の上に重くのしかかり、すべての反対集団を踏みにじり、無きものにしている。大衆はその密度とおびただしい数を見れば誰の目にも明らかだが、自分と違う者との共存は願っていない。自分でないものを死ぬほど憎んでいるのだ。」(pp.155-156)

「8  大衆はなぜ何にでも、しかも暴力的に首を突っ込むのか」(pp.144-156)

 


「問題とはこれである。すなわちヨーロッパにモラルが無くなったのだ。[…]その生の体制の中心がまさにいかなるモラルにも服従せずに生きたいという熱望から成り立っているということだ。」(p.315)

[…]

「彼の精神状態はすべての義務を無視して、その理由を自らは疑うこともせずに、自分を限界のない権利の主体と感じることだろう。」(p.316)

[…]

「つまり、大衆はただ単に言ってモラルを欠いているということなのだ。つまり常に、本質的に何ものかに対する恭順の念や奉仕と義務の意識であるモラルを持っていないことに尽きる。」(p.318)

「15  真の問題に辿り着く」(pp.315-320)

 

やさしさに包まれたなら

いい意味で心がぞくぞくするすてきな場所に招待してもらって、とってもワクワクしながら書き出してみる!

というわけで、最近積読本を1冊読み終えた。

精神科における”患者”とのやりとりから「やさしさ」を考えるというのがテーマ。実際の相談例を載せながら現代人の考える「やさしさ」に迫っていて、小説みたいにスラスラ読めた。そんな中で、個人的にこの本のキモだと感じたのが、昔の「やさしさ」と現代の「やさしさ」が違うということ。

この本における「やさしさ」とは、滑らかな人間関係を築いていく上で、潤滑油のような働きをするもの、だそう。この基本的な「やさしさ」の役割は、昔も現代も共通しているけれど、指し示すものが違うらしい。ざっと簡単に違いを書いてみるとこうなる。

昔の「やさしさ」

    ・「気持」重視

    ・近代語として、人を和ませる性質の一種

          →娘たち、花々の美徳としては認められるが、マイナー価値

          →優しさは与するに易しいこと

    ・1970年代(学園闘争) 自分も他人もともに弱い傷ついた者であるという認識 

          →「互いの傷を舐め合うようなやさしさ」

          →「やさしさ」を向けられることで傷ついていたことに気づく

          →傷を癒すためには「やさしさ」が必要

  

現代の”やさしさ”

    ・具体的に実践可能

    ・裕福になり、物に囲まれる → 「使い捨て」の時代に

          →わずかな傷でも、新品とは認められなくなる

    ・傷がつくことへの恐れ

          →治療としての「やさしさ」から予防としての”やさしさ”へ

          →傷をなめ合うのではなく、お互いを傷つけない”やさしさ”

           e.g.)あえて電車で高齢者に席を譲らない、声をかけない等

なんというか、昔の「やさしさ」は相手に寄り添う、相手の領域にも足を踏み入れるような感じ。現代の”やさしさ”は、こうしたら「やさしくない(だろう)」という軸があって、その中でこれは相手にとって「やさしい/やさしくない」と決める(決めつける)ようなもの。

この「やさしさ」と”やさしさ”とでは、目指している人間関係自体の内容も変化したらしい。それを理解するうえで紹介されていたのが、「涙する場面」。

●人間が泣いている人を見ると、その人の気持ちを察して同情しようとする。

●人の悲しみに自分の心がゆすられる。

この2つは人間関係における「やさしさ」の原点で、昔も今も変わらないらしい。ただ、変化したのはこの先についてで、

昔は、「人の心の痛みがわが事のように思えることは『良い』こと」で、そうなることで「お互いの気持ちが一つになり、一体感を得られた」から、人は「やさしい人」の前でなら、心おきなく涙することができた。らしい。なるほど。

一方で、現代において”やさしい人”であればあるほど人の悲しみ・悔しさに動揺をしてしまう感受性の鋭い人を指すようになったそう。つまり、「弱い」らしい。

という感じでざっくりとだけ違いを紹介してみました。なるほど~。「やさしさ」とは関係ないけど、別の本で昔と今における人とのつながりの違い、みたいなものを何冊か読んだときに、昔の人は「同質的」「同調的」で、「長いものに巻かれろ」みたいな関係を築く一方で、今の人たちは「共存的」「協調的」のような関係性を望む、というのが共通して書かれていたということが思い出されたんですよね。

この昔の「やさしさ」も言い換えれば他者との「同質化」を図ろうとするもので、現代の方は、「同質化」ではないみたいな。なんなんだろうね。というかある意味「同質」である状態がデフォルトのようになってしまったみたいな?でも、ふと思ったけど、自分と他人が100%重なることなんてないのに、「同質化」を望むって、そもそも無理だなと。仮に、同質になれたと錯覚したところで、結果自分と他人が違うのだから、「同質化したいけどできない」みたいなジレンマに陥って、疲れるよね*。だから「同質化」から抜け出すのは至極全うだなと考えた。

*そもそも同じになれないことを理解して、同情するからこそ「やさしい」のか…?

現代の”やさしさ”における「お互いを傷つけないこと」と「共存的」もなんとなく合点が行くかな~と。相手を傷つけたくない、そして自分も傷つかない、これを達成できるのは、「あえて傷をつけるのような事はせず、”やさしく”いること」だよね。まあ、そもそも誰とも関わらない方が良いんだけど、そうはいかないのが現実。”やさしさ”を意識して、お互いの領域を侵すことなく、自分とは異なる存在と「共存」していこうとする。でも、個々人の「やさしさ」の軸が異なるから「共存」するにも支障が出てくる。うーん、大変だ。

とっても矛盾をはらんでいるけど、人間って「やさしく」ありたいんだね。

大平健(1995)「やさしさの精神病理」岩波新書.

クレーム

 

 

 

母に誘われて代々木公園のごみ拾いボランティアに行ってみた

誘われたから行ってみただけで
社会貢献とか
環境保全とか
ましてや誰かにほめられたいとかでもなくて
天気もよかったから ただなんとなく

 

ひまりにとっては初めてのことだったけど
だんだん楽しくなってきたみたいで
もくもくと数十分
地面だけを見つめながら歩くのが新鮮で気持ち良かった

「きったねぇな」

って。
後ろに子どもを乗せたママチャリのおとうさんがすれ違いざまに

急に怖くなった。

 

すごくちぐはぐした格好でおしゃれな街に来てしまったときみたいに
大昔に仲良しだった子に急に無視され始めたときみたいに

 

誰かに迷惑をかけたのかな、って

 

誰かを傷付けた自覚がないのに
他人から急に否定的な言葉をかけられたとき

どうするのが正解なんだろう

 

そういうとき大抵こちらからアクションを返す時間や対話する空間が与えれない

自転車に乗ったおとうさんはあっという間に公園へ去っていく

 

駅前の混み合った通りをママチャリで走っていて「じゃま!」って、後ろに乗る娘のシートを殴られたときも

家の敷地でお友だち親子と遊んだ次の日に「子供の声がやかましく、非常に迷惑している」とか「どの親も子どもを注意していない」だとか匿名の苦情のメールが届いたときも

 

一方的で自分が傷付かずに相手を傷付ける方法だった

 

なるべく子どもを乗せるときは人通りの少ない道を選ぶし

子どもを家の外で遊ばせるのを控えるようになった

 

どいてもらえませんか、とか

家に受験生がいるので静かにしてもらえませんか、

とかだったらありがたかったなぁ

対話の機会が与えられなかったわたしは
やっぱり正解がわからない

 

 

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