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儚:fleeting

新緑を愛でに…

2021-05-03

行ってきました

そこに流れていた時間と、

過ごした時間の調和がとても心地よく、

ありがたく…

ヤマブキも見頃でした

澄んだ空気と

闇夜の雨音に心が洗われました。

誘いに乗ってくれた友に感謝。

新緑を愛でに…の思いを

完全に体現していた木が1本。

かなわないなー

日を浴びて踊りたそう

そしてこちら、

木に差し込んだネジをクルクル回すと

鳥の鳴き声がするBird Call。

効果があるのかもともとなのか、

ちょっとだけコーラスの仲間入り。

駅のガチャガチャで

記憶の新しいうちに

残像を留めておきたくて、

こちらでちょこっと、おすそわけ。

(※音付きです)

Bird Callもご一緒に

残りの日々もゆるやかに

過ごせますように

yuko / כלב

いい写真撮ってもらっちゃった〜

こどもは…

「こどもは、たからもの

こどもは、きぼう」

「またいつか、ご縁がありましたら…」

先日、朝一で仕事を終えて、

カフェでモーニングセットを頼んで読みものをしていた。

ふと気がつくと、

隣の隣にすわっていた初老の女性が、

スマホを片手にそーっとこちらへやってきて

「ちょっといいですか?」と。

何が始まるのかな、と

何かの勧誘かな、と

ほんの少しだけワクワクしていたら

女性は、

「今日、孫の入学式でしてね、ここから見られるって教えてもらったんだけど…」と

スマホの画面をこちらに見せた。

コロナのため保護者とその家族向けに

入学式の様子がYouTubeでライブ配信されているというのだ。

なるほど、リンクを開けば今始まったばかりと思われる入学式が

目の前にあらわれた。

下の方に広告がチラチラと出てくるもので、

他のボタンを押すつもりでなくとも

ほんの少し触れただけで広告や次の動画に移ってしまい

その女性は途方に暮れていたようだった。

確かに、下の方にチラチラ出てくる広告は邪魔そのもので、

それでも女性はしっかりスマホを握りしめ

いつ映るとも知れない孫の姿を追いかけていた。

(しばらくして、全画面にすればいいのだと思い出しあわてて、それをお知らせした。)

小さな画面からお孫さんのお顔まで見れたかどうかは

わからないものの、その女性は優しそうな笑みを浮かべて

「どうもすみません」

と私に繰り返した。


再び読みものに戻り

しばらく経つと、目の前にトレーを持った人の気配が。

両隣の席は埋まっていたので、

あれ?お店の人かな?と思って見上げると同時に、

「これ、たべて」と

読んでいた本の上にポンっとサンドイッチが。

紙コップに注いだ水も机の端に置いて。

その仕草の

あまりに自然で、

あまりに慣れた様子に私の目は女性の手元に吸いよせられた。

「えーいいんですかー?!」

「いいのいいの、食べてちょうだい」

さらりと言って、席へ戻られた。

そのサンドイッチは、素直にありがたかった。

前日の夜から何も食べていなかったから、

モーニングのクロワッサンだけじゃ物足りないと思っていたからだけでなく、

「どうもすみません」と恐縮されていた女性が

もう恐縮することがないと思うと

心が軽くなった気がして、ありがたかった。


「贈与」と「交換」の関係が

しばらく前から気になっていた私は、

最近読んだばかりの新書の一冊を思い出していた。

「贈与という現象の最大の問題は負債にあります。物をあげるという行為は、同時にもらった側に負債の感覚を与えてしまうのです」(中島2021: 85)

そう、女性に私が与えてしまったであろう負い目を

解消する術を女性の方から私に与えてくれたことに。

なんとなしのわだかまりがサンドイッチに掬われた気がしたのだ。


中島(2021)では続いて、人類学者マーシャル・サーリンズの負債の議論を取り上げ

サーリンズが分類した3つの互酬性について説明している。

せっかくなので、女性と私におきた出来事もこの互酬性の概念から振り返ってみたい。

サーリンズのいう3つの互酬性は以下の通り:

(1)一般的互酬性:親族間で食べ物を分け合うなど。返礼はすぐに実行されなくてもよい

(2)均衡的互酬性:与えられた物に対して同等のものがかえってくることが期待される。返礼は決められた期限内に返済されることが期待される

(3)否定的互酬性:みずからは何も与えないか、少なくして、相手から最大限に奪おうとする。詐欺や泥棒など

この3つを提示した上でサーリンズは、

一般的互酬性に潜む「権力の萌芽」を指摘するという(ibid., pp.84-85)。

(中島(2021)の議論はこの後、返礼の相手が誰か(本人であれば「直接互恵」、本人以外の誰かであれば「間接互恵」)という点や、贈与から交換へと関係性が変わること、はじめから「期待」をしていないという前提や、そのような「贈与」の根源には自分を超えた何かによる「業」が潜んでいるという仏教概念を提示しながら「縁起的現象としての「私」」(ibid., p.99)へと展開していく)

私が心が軽くなったと感じたのは、

「どうもすみません」を繰り返す女性を前に、

私の「贈与」がその実体以上に肥大化し

女性に肥大化した「負債」を追わせてしまっていた(と私が思う)事態に対して

女性が(2)「均衡的互酬性」へと枠付直してくれたことに起因する。

「贈与」の最中、それも私自身は「贈与」であるとは全く思わず

むしろ、「呼びかけられたから、できることをやったまで」というある種の

私の中の利己的な美意識に動かされただけで、

「互酬性」の規範など1mmも頭をかすめていなかった出来事がもたらした「負債」を

解消する手立てとして「均衡的互酬性」という規範が持ち込まれたこと、

これにより私と女性のあいだの「贈与」による関係が

「交換」の関係へと変化したことで、救われた気がしたのである。

こう振り返ると、サーリンズの(1)〜(3)の互酬性の議論は

「物」と「物」の交換を前提としており、

そこに「言葉」が加わることについては、どのように議論されているのだろうか?

と疑問が湧いてくる。

「言葉」それ自体が持つ「互酬性」の規範意識が

どのように共有されていたのかがわかれば、「返礼」の概念もかわってくるのだろう。

この「言葉がもつ互酬性の規範意識」という考え方は、

「贈与」と「負債」に関する議論の水脈を掘り起こし、

「支配」と「暴力」の議論へと展開する一つのきっかけになりそうな…。


サインドイッチが置かれてから30分ほど経ったころ

「〇〇ちゃん、シャツ出てるよ」という声が聞こえてきたので、

顔を上げてみると

入学式から戻ったばかりのお孫さんとお母さんがそこに。

お母さんの「お世話になりました」に、

「いえいえ、ご入学おめでとうございます」と

お互い頭をさげて。

帰り際、女性は再び私に向き直り、

「ありがとうございました。またいつか、ご縁がありましたら…」

と頭を下げてお店を出られた。

後に続くお孫さんは、さりげなく女性を気遣っていて

そのまなざしから、

二人がこれまで大切に培ってきたであろう

柔らかな時間とその暖かさが

こちらにまで伝わってきた。

二人の姿を目で追いかけながら、

サンドイッチを頬張った。


【追記】

ここまで書いて、マーシャル・サーリンズが月曜日(2021/4/5)に亡くなられたと知る(「A Great Tree Has Fallen: The Passing of Marshall Sahlins」 by David Price, April 9, 2021)。

そして去年亡くなったデヴィッド・グレーバーはサーリンズの教え子で、サーリンズはデヴィッドの追悼文を書いていたことも(「追悼 デヴィッド・グレーバー(1961-2020)/マーシャル・サーリンズ」以文社)。

【参考文献】

中島岳志(2021)「利他はどこからやってくるのか」伊藤亜紗・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎『「利他」とは何か』集英社新書、pp.65-107.


新しい春

しまった。

なんてこった。

一度も更新できずに3月が終わっちゃった。

もう1年の1/4が終わったなんて…

昨日、新しい春がきた。

1日どこかむずがゆく

1日まるで落ち着かず

どうにもこうにもならないので

帰り道に、友を呼びつけ一息。

8年前、足繁く通ったそのお店は

何もかもが昔のままで

テーブルにちらばる

入学式を終えたばかりの

眩しいほどの若さが

時が経ったことを知らせる

唯一のしるしで。

渡された名刺に書かれた名前は

どこの誰だかわからない。

これだから

私は人からもらう私の名刺が

とことん苦手だ。

本当に自分の名前が刺されて

身動きできない気分になる。

それでも

それでも

一枚取り出して、

あの人の写真たての前に。

「いつもありがとう」とだけ

走り書きして。

あの人は最期まで

祈りの人だった。

昨日、新しい春がきた。

私はまだ、支えられてる。

あの日のこと

濡れた教室と廊下

冬と春の間

湿った空間

まだ薄暗さが残る朝

力いっぱいカーテンを引っ張る

白いカーテンがレールから外れる

腕いっぱいにカーテンを持つ

階段をのぼる

階段を降りる

かたいもの同士がぶつかる音

足をすすめる

息をひそめる

音がひびく

ぶつかり続ける音

近づく足音

「救急車を呼んでくれ」

ツーツーツー

使えないのは わたし?携帯?

どこかで響くサイレン

ぶつかり続ける音

階段をのぼる

「□*〇ちゃんが下にいるから、声をかけてきて」

階段を降りる

足をすすめる

湿った暗い部屋

ぶつかる音は聞こえない

息をひそめる

横にたつ

「朝まで寒いって言っていたの」

背中をさする

『だいじょうぶだよ。うえにいこう。』

背中をさすり続ける

なにが大丈夫なんだろう

なにが正解だったんだろう

どうしたらよかったんだろう

いまも分からないまま

贈り物と頂きモノ(1)

2021-1-16

一週間、経つのが早すぎる。

毎日は無理でも

せめて3日に1度は書ければ…

と思う気持ちには

とてもじゃないけど追いつけなくて…

一年が52-54週なら、

今年の残りは50週

一週間に更新が1度なら、

今年の目標更新数は50回

にしておこうかな…

(おーい、少なすぎるよーと、心は叫んでいるけれど…)

さて、今日のYogi Teaのお告げは…

(知友がそう呼んでいた笑)

あぁーやめて…

重すぎる…

今はそんな気分じゃないの

もっとどんよりしたいのよ

(闇に包まれたい時間だし?)

とてもじゃないけど

明るくなれそうにないって

ときにかぎって、

底抜けの明るさで

全人生肯定観念論を展開されても

困るし、もう

全然助けにならないわ!

などと心で罵ったりして。

(8割がた救われてるのに、薄情なやつ)

あまりに正論で

「すき」や「ま」がないのは

もはや正論ではない

はいー決まったー

(今決めた)

いや、違うな…

(ここから独白に入ります)

This life is a gift.って

間違いないの。

100%わかって

100%理解できてるのに

そうとは思えない私がいるのも

100%事実であって、

そうだとすると

This life is a gift.の問題は、

A=Bであることを述べることで

A=Cである可能性を背景に押しやってる

ことにあるのでは。

This life is a gift.に

辿りつくまでに

幾たびも傷ついてきたのに、

そのすべてをひっくるめて

全部まるごと

This life is a gift.だなんて

あんまりで、

This life is a giftなどと

とてもじゃないけど

思えない人の気持ちは、

どれほど遠くに

押しやられてしまうのだろうか…

ということ。

+「…?」

「A=Bであることを述べることで

A=Cである可能性を背景に押しやってる」

とは、

一方で、

「A=BはA=Cでもあって、

A=Bは、Aの一つの側面にすぎない」

ということを、了解しえないのはなぜか

という問題でもある。

like, a kind of, a sort ofのような

ぼかし表現をともなって

A=Bの確からしさの程度をさげて、

了解を得やすくすることもできる。

けれど、そうすると抽象さが増して、

AとBのつながりは不鮮明になる。

その意味で、

何を取るかは多分に政治的・方略的な問題になる。

つまり、

A=Bということで、

A=C(やA≠B)を排除してしまう

(と思われる)事態(≒リスク)が

生じうるとしても、

それでもなお、A=Bという価値がある

と判断された上での

A=B、

This life = a gift.

なのだ。

This life is a gift.のことばの重さは

そのことばの「価値づけ」

(をしてきた人々、を支える人々)

の重さだったのかもしれない。

このことは、

ことばを以て何かについて

述べようとすると

大なり小なり、生じてしまう

永遠のテーゼでもある。

別の言い方をすれば、

ことばの限界。

けれども、ことばは、

神経細胞(ニューロン)から神経細胞へと

神経伝達物質が送られることの

繰り返し、と連なり、

すなわちニューロンネットワークの発露

であるから、

「ことばを以て何かについて述べようとすると

大なり小なり、生じてしまう

(多分に政治的・方略的な)了解の問題」

はそれこそ、ニューロンネットワークの多様さ

つまり、

ことばを生み出す関係の固有性、

置き換えられなさを示している

といえるのではないだろうか。

この神経細胞の伝達を「データ」として蓄積し、

ニューロンネットワークを

検証することになれば、

ネットワークの強弱によって

価値判断を生み出す

に違いなく、

そうなれば、ネットワークの微弱なものは

統計的には捨象され

「ノイズ」とみなされるだろう。

そのネットワークこそが、

その人にとって「固有な」もの

であったとしても。

だからこそ、

だからこそ、

この了解しえなさを、

あるいは

了解できたとしたら、なぜできたのかを、

問うこと、疑うこと、

「ことば」にすることが、

目には見えず

耳にも振るわず

手でも触れず

測りもしえない

「ことば」を生み出す関係の固有性、

置き換えられなさの発露を

唯一のものとして扱う

一つの術(ars)なのだ。

(先達たちは、これを「道」と捉えてきたんだよね?)

「贈り物と頂きモノ」で書こうと

思っていたことから

途方もなくかけ離れてしまったので、

ひとまず第一弾として、

第二弾は、またこんど。

yuko / כלב

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