2020-12-25
最近たどり着いた一つの解
親の仕事は、
おや?っと気づくこと
それ以上でも以下でもないこと。
ダジャレだけど、きっとそう。
だから、可能な限り研ぎ澄まそうと思って。
おや?っとする感覚を。
with words, as discourse
2020-12-25
最近たどり着いた一つの解
親の仕事は、
おや?っと気づくこと
それ以上でも以下でもないこと。
ダジャレだけど、きっとそう。
だから、可能な限り研ぎ澄まそうと思って。
おや?っとする感覚を。
ひとりの子と出会った
かれのこと、まわりのひとは
しょうがいじゃないか、って言ってた
その日もかれは体操の列からはなれて、
わたしはあとをついて、園庭の後ろを歩いてた
ふと、かれがうたっているのがきこえた
わたしのしらないことばで、
でもはずんでいるおとで
腕をあげて、足を踏みならす
たのしそう ダンス
となりにしゃがんでそれをみてた
草のところどころ生えた白っぽい園庭
そして突然下を指さして、
そしてそれから上を指した!
その時わたしは空を見て、
ああ! なんて!
空は広いんだ
目眩がするほどびっくりした
そしてそれから地面を見たら
ああ! なんて!
地面は丸いんだ!!!
空と地面と魚眼レンズのようにひとつにつながって
わたしたちふたり
まんまるい、おおきなまあるい水晶玉のなかにいるようにみえた
ことばってなに?
かれはしょうがいなんだろうか
こんなにみえなくなっていたことを教えているのに
ぜんぜん聴いていないのは、わたしたちのほうじゃないか
わたしたちはみんなことばに/を奪われているんじゃないのか
このこえをきこえるようにするにはどうしたらいいの?
ことばを取り戻すにはどうしたらいいの?
時間が必要だ時間が
注意深く世界に耳をすます時間が
そして
書くことのおそろしさを知ることが
わたしはもうかけない
それでも、かかなければならない
How you day?
ほんものをみて
ほんものはすくない
ほんものをみていて
ほんものはあるのよ
「かたち」とはちがうの
ただ「かたち」を借りて闘っているの
よくみていて
よくみていて
みみになって
うばわれているものを
2020-12-15
大量のバッタの群れが、農作物を食い荒らす害のこと、知ってるかい
バッタの蝗、で「蝗害」っていうんだけどね、
蝗害をもたらす大群の中のバッタは、色や足の形をはじめ、見た目がぜんぜん違っていたので、
大人しい普通の単独バッタとは、ずっと別種のバッタだと思われてたのだそう。
でも、研究者が蝗害のバッタを一匹にしといたら、なんと、そのうちに何の害もない「ただのバッタ」に戻っていったんだって。
一匹だけだったら、何にも害をもたらさない、ただのバッタなの。
ところが、バッタが数匹集まったとき、「集まってるよ」ってフェロモンが出て、ただのバッタが、だんだん集まる内に、どんどん攻撃的・貪欲になって、みんなが同じ方向に向かって行進するようになって、見た目もいかつくなっていくらしい
ひとりだと普通の人が、集団になると、同じ方向に向かって、ワルいことにも加担できてしまうのと同じイメージなんだって
そういう個を喪失して凶暴化したバッタの相貌は、「群生相」っていう。
それは人相の「相」
「相」は、木を見ることで、詳しく見るが語源と言われているんだけど
「合い」と語源が同じという説もあって、「合い」は、つまり「間」のことなの
あいだにつながっているものが、わたしたちを相互につくりかえているの
あなたはわたしの一部
わたしもあなたの一部
わたしたちは切り離されてるって思わせようとされてるかもしれないけどさ
「あいだ」に生まれ来るものが、
わたしたちの「人相」も変えているのかもしれない
バッタが「凶暴化」してるっていうのは一つの見方で
彼らの食物を奪い土地を破壊してるのは人間かもしれないし
でも、集まったときに、みえないんだけど、確かに「あいだ」が、
たぽんとした湯船のような、くすぐったい気持ちよさが、創発するんだよね
バッタとの間にもあるのかも
できるだけあったかな相にしたいなあ
それをみたいなあ
かいでみたいなあ
見えなくなっているんじゃないかしら
いまたくさんのものが
2020-12-09
お茶を飲むという行為に、ことばが添えられるYogi Tea.
サロンでお茶を飲みながら、言葉を交わしていた時代の人からしたら、
興醒めだろうと思ったり.
そのとき、そのときの、生をとらえることばを
議論の中で探り合い、見つけ出すためにこそ
お茶を飲んでいたのだろうから.
でも、しいんとした夜に、ひとり
ことばにとらわれるその一瞬は、
また別の暖かさ.
<行為者としてのモノ>(ギギ 2011)について
考えたのはフランスの人類学者・哲学者ブルーノ・ラトゥール(1947-)だとか.
ひるがえって日本の民俗学者折口信夫(1887-1953)は、
日本の古代の神概念としてカミ・オニ・タマ・モノをあげる(折口 1929).
「モノ」が指し示すものは当然違うだろうけど「モノノケ」なんてのは、
まさに、<行為者としてのモノ>を捉えたのではなかったか.
このあたり、じっくりと、またこんど.
さて、もう一杯入れてこようかな.
<行為者としてのコトバ>にとらわれるために.
ファビオ・ギギ (2011)「行為者としての「モノ」 ──エージェンシーの概念の拡張に関する一考察──」『同志社社会学研究』 15:1–12.
折口信夫(1929)「霊魂の話」(『民俗学』第一巻第三号)折口信夫全集刊行会編纂(1995)『折 口信夫全集 3』中央公論社、pp.248-263.
2020-12-05
もうしってしまったの
「あ」が「あ」だって
それをわたしがおしえたの
「あ」が「あ」だって
おそろしいことをしたものね
「あ」は「・」でも、「ー」でも、
あったかもしれないのに
・・・
あぁ、これで、
あなたのせかいはもう、
ぶんせつされてしまったかしら
ひらがなのおとをたよりに
・・・
おそろしさにかたんして
こころではもう、
つぎのことたくらんでいる
こまったかあさん
・・・
「あ」が「あ」ではないことを
それをわたしがおしえるの
「あ」が「あ」ではないことを
おそろしいことするものね
「あ」は「・」でも、「ー」でも、
あるかもしれないなんて