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つぶやきがわりの雑記をここに

数年ぶりの投稿(笑)最近地獄少女というアニメを観たのでいろいろ考えてみた

月光の下(小説っぽくない小説?)

一.
 私は種であり、私は植物の種であるが、同時に、私は世界である。 私の中には生、成長そして死が含まれている。 すべてが合理的かつ整然としている。
二.
 私はベッドのそばに座りて、三日月に面し、神を呼び続けている。 しかし、依然としてなんの応答もなかった。
 私は祈り、私は賛美し、私は神の名を唱え、その後、また祈る。 私は神に向けて頼み、懇願し、神の慈悲を請う。 私にはわからない、なぜ自分はこんなにも苦しんでいるのか、なぜこんなに不幸なのか理解できない。 それはすべて神の計画というのか? それはすべて神の取り決めなのか? もしそうであれば、なぜ私にこんなことをするのかを教えてほしい。 もしそうでなければ、なぜこの世に不幸が存在するのだろうか? どんなに祈っても、どんなに賛美しても、どんなに神の名を唱えても、なぜなんの応答も得られないのだろうか。 神は善なのか? もし神が善であるなら、いかにしてこの不幸と苦しみを許されたのだろうか。 もし神が善でないなら、もし神が世界を創造した後介入をせず、もはや人間のことを見もせず聞きもしないのであれば、なぜ我々はここで祈るのだろうか? 礼拝にはまだ意味があるのだろうか。または、神は善良で我々とともにいてくださるのだが、残念にも全能ではなく、人間の選択に、人間の悪に、神にもなす術がないならば、それはつまり神をも上回る何かがあるということなのか? 神もまた束縛された存在にすぎないのか?
 私はわからない、私は考えても考えても、いくら考えたとしても答えを得られず、応答も得ることはない。 私の正義はまだ到来することがあるのか? 正義はまだ存在するのか?そう考えずにはどうしてもいられなくなる。
 地獄少女が本当に存在するならば、この時私はもうその赤い糸を引いたところだろうね。神の応答がえられないのならば、地獄に向かうとしようか。 憎しみの業火を私の中で燃えさせろ。
三.
 やはり結局一時の衝動に駆けられ、その赤い糸を引いてしまった。
 仇を討ったのだ!この恨みを、地獄少女が地獄に流してくれる!私の正義が到来した!歓喜を!
 しかし、この時に私はささやかな泣き声、ささやかな嘆きを聞こえてきた。どこだ?誰だ?なぜ?幻聴か?
 すると顔を上げるとそこに三日月が私を照らしてくれている。三日月が私とともにいてくれていることに気づいた。もしかしたら三日月が私のために泣いたのか?私のために嘆いたのか?まあ、何せよ恨みの相手を地獄に流せたんだ、これで家族もようやく安らかに眠ることができるだろう。そう考えると、心の穴がやっと埋められるような気がして、少しはホットした。だが、どうしてもそのすすり泣き、その嘆きのことが気になる。この時私の家族はもう天国に行っているでしょう。そこに理不尽や憎しみ、苦しみがなく、永遠のやすらぎと平和が訪れるように。ただし私はもうそこに行くことはないけどね。
 そして、それからの日々、私は目標や情熱を失い、自分の死を静かに待っているだけの人間になってしまった。 胸のそのマークは一生の隠された痛み、そして生死に関係なく永遠に平和を得ることがないと私に言い続けているように思えた。 それだけでなく、毎晩悪夢に襲われ、自分の手で地獄に送られた人の悲鳴が聞こえる。 「どうしたの? 悪魔に同情してるの? まったく私らしくないな。」
 悪魔は地獄に行くべきだ!悪魔は罰せられるべきだろう!悪魔はこの世にいるべきではない! 悪魔は一人でも減らせるとその分不幸が減り、喜びが増す。 私はただやるべきことをやっただけだ。だけどなぜ?この苦しみと悲しみは、消えない。そして、虚しさに覆われている。
 悪魔がすでに地獄に落ちたにもかかわらず、私は今だにもまだ彼を呪い、まだ彼のことが憎い。 毎日彼が地獄で苦しんでいる様子を想像して喜びと慰めを得る。この悪魔がどんなに邪悪で罪深いなんだ、そう考えると私はなんと正義感に満たされる。「そうだ!私は正しいことをしただけだ!なにも悪くない。悪いのがあいつだ。」このように何日も続いている。
 そして突然ある日、鏡にのぞき込むと、なんとそこに映し出されているのは自分ではなくその悪魔の顔だ!驚きのあまりに私はのけぞって倒れた。口の中から「私は悪魔じゃない! 私は正義の使者だ!」と繰り返すばかり。しかし鏡は嘘をつかない。その中に映し出されているのは紛れもなくもう一人の悪魔なのだ。そしてこの時にまた、私は聞こえてきた、その泣き声、その嘆きを。正義とはなんだろう?復讐は正義と言えるのか。暴力を伴わない正義なんてあるのか?それとも正義自体はそもそも暴力的なのか?とりわけ、私個人の正義は何だろう?どうすれば正しくて良いだろうか。個人の正義は暴力か。何せよ、もうその鏡の中には昔の自分の姿がとうに消えたのだ。
 「悪を犠牲にしてより多くの人々を救うのは正義ではないのか。 悪魔は罰せられるべきじゃないのか? 復讐すべきじゃないのか? 私にはそんな権利を持っていないというでもいうのか? 民のために害を取り除くのに何が悪いのか?」これら数々の疑問、誰がこたえてくれるだろう。さらには、今のこの状態の私には、誰が納得のいく答えをくれるのだろうか。おそらく今の私ではどんな答えも受け付けていないだろうな。仕方のないことかもしれない、家族がつい最近亡くなったからだ。今の私にはもう何もわからなくなってしまった。それとも、最初からいわゆる正しい答えなんて存在しなかったのかも。 なぜなら、世界はもともと不合理で、不公平で、カオス的だからだ。 ただ、我々は答えを得ることに慣れて、作り出された公正に慣れ、作り出された合理に慣れている。 だからころ、万一本当の現実世界に遭遇してしまったら、怒りや悲しみをぶっつける対象が必要になってくるだろう。 なぜ私だけがそんなに苦しんでいるのか? 答えは、「特に理由はない」、と。もしかしたら最初からそうなのかもしれない。ただし、今の私にはもう知る由もないだろう。ただあるのは、顔を上げるとそこにある一輪の月のみ。
 不思議にも、その三日月からのすすり泣きや嘆きが今の私をなだめてくれている。 この瞬間だけ、私は本当の平和を得た、本当の痛みは和らげられた。 どんなに孤独でも、どんなに痛くても、悲しんでも、いつも月が私と一緒にいてくださり、私の苦しみを理解し、私の痛みを理解してくれている。 だからこそ、この時私は願った。この珍しい平和と静けさが消えてしまわないように。 この瞬間、永遠に時間が止まることを願って、夜明けが来ないように願った。 これこそ私が本当に必要とするものなのだ。愚かな復讐なんか、愚かな正義の使者なんかじゃなく、そして愚かな自分をまたもう一人の愚かな悪魔に変えることなんかでもない。 嗚呼、三日月よ、どうか私を許したまえ。 どうか私の愚かさを許したまえ。 しかし、もう何も手遅れだ。 今さら三日月に願ってもなにも変わらないだろう。
 嗚呼、私は悟った。「三日月よ、君が伝えてくれたんだね。そのすすり泣き、その嘆きは天から見ている家族のものね。こんな惨めな私を見て、家族が泣いて嘆いたんだね。しかし、もう手遅れだ。たとえ嫌でもこんな私を見ていなくちゃいけなくて、そしてどうすることもなく、泣いたんだね。ああ、月よ、君もそうなのか?」
 「嗚呼、月よ、どうかどうか今の私の嘆きを、今の私の懺悔を家族に伝えてください。嗚呼、月よ、どうか私の家族に私のことを忘れさせてください。嗚呼、月よ、どうかもうこれ以上私のことを見ないでください。嗚呼、月よ、どうか今一時の私の安らぎと慰めが永遠に続くように。嗚呼、月よ、でも何もかも実現なんて不可能だろう。」
 なぜ、今せっかく得た安らぎと慰めがこんなにも苦いのか。
四.
 なるほど、私は種子であり、私は植物の種子であるが、同時に、また私は世界である。 私の中には生、成長、死が含まれている。 すべてが合理的かつ整然としている。
 今ようやくわかった。夜こそが本当の世界であり、月こそが私とともにいてくださるもの。 我々はただ偽の昼に慣れて、太陽の光があることに慣れているだけ。 この世界は、常に2つの世界、偽の昼と真の夜。 我々は昼の間に迷子になり、太陽の下で迷い、本当の夜を忘れ、本当に我々を見ている、本当に我々とともにいてくださる月のことを忘れてしまった。
 ああ、三日月よ、ようやくあなたの声が聞こえた。ようやくあなたの応答が得られた。ああ、歓喜を!賛美を!三日月よ、終始一貫してそこにあり、一度たりとも離れたことがない。ずっと我々のためにすすり泣き、嘆いているのだね。どうかどうか、私を種にしてください、植物の種にしてください。
 なぜなら、植物こそ本当に初めてその偽りの法則を破る存在であり、植物 こそ 本来相容れない偽りの世界の中に自分の世界を作り上げ展開し、その種子の中に全世界を含ませている。 まるで今、昼を破って夜を迎えているかのように。 まるで今、偽の太陽を見破り、本当の月を迎えているかのように。 太陽は、昼は、我々の目を通して加工された後の産物である。 なぜ夜の上に昼が必ずなければならない? なぜ月の外に太陽が 必ず なければならない? なぜ理由が必要なのか、なぜ合理的でなければならないのか。 我々はただ、月が終始一貫我々とともにいてくださり、我々の苦しみを理解し、我々の痛みを理解し、そして我々のために泣いて、我々のために嘆くことを知るだけで、それで今の私のように、本当の安らぎと慰めを得ることができる。悲しみや苦しみを誰かにぶっつける必要があるならば、その対象がずっとそこにいるのではないか。怒りや悲しみをぶっつけて、そして今の私のように和解するのだ。
 ああ、私は種だ、私は植物の種だ。 私はこれにて新しい世界の扉を開いた。 ああ、三日月よ。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

この物語(同人誌?)はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。

参考文献:
 H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか 現代ヨブ記』斎藤 武訳、岩波書店(岩波現代文庫 社会164)、2008年
 エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学 混合の形而上学』嶋崎正樹訳、勁草書房、2019年
 アニメ『地獄少女』

想







先日、祖母が亡くなった。
近親者の死は初めてだった。

誰かがいなくなること自体の喪失がここまで大きいのか、と感じている。
頭では祖母が亡くなったということは理解している(つもりな)んだけど、受け入れられない、受け止め切れないというのが大きかった。

今まで、人の死に触れたことはあった。
でも、これほどに「死」の衝撃は受けたことがなかった。

「死」ってなんだろうと考えたとき、パッと思い浮かぶのは「肉体の死」だと思う。
肉体があるから生きているというよりは、呼びかけへの応答、語り掛けへの応答、もしくは応答をするために呼びかけるということができることこそ「生きている」と言えるのかもしれないと考えた。

今回の祖母の死で、大きな喪失感を覚えたが、その喪失感の一部は、祖母と私の間の「相互行為性」が消えたからだと言える気がする。(そもそも自分が相互行為に興味があるからというのもあるが…)

呼びかけても応答がない、私からという一方向的な相互行為しか生まれない、そんなところに喪失感を覚えて、「死んでいる」と認識するのかな~と。

だけど、それだけでは終わらないというか。次の段階として、「遺影」に呼びかけるということをし始める。そこには祖母がいないのに、みんな「うちに帰ってこれて良かったな」とか「来たよ~」とか語り掛ける。自分も2日後ぐらいに語り掛けていた。

応答が来ないというのは分かってるんだけど、語り掛ける。
「肉体の死」によって、ぽっかり空いたその場所に遺影/お墓を「その人」としてあてはめようとするという感じ?「死んだから」その人と築いた相互行為の輪が消えるのではなくて、代替するみたいな?

だけどやっぱり「応答性」においては一方向的だから、「死」は理解しているというか…。

いずれにせよ、近い人間の死を本当の意味で受け入れていくことって難しいなというお話。小さい頃は、死んだ後の世界のことを創造して、無意味に怖くなって寝れなくなったりしたけれど、死を恐れる必要はないんだなと思った。







祖母は、THE主婦で、共働きだった両親の代わりにいつもそばにいてくれた。
お昼の料理番組を食い入るように見て、メモを取った数日後には食卓にその時の料理が出てきたり、掃除好きで毎日掃除を欠かさなかったり、まさに主婦の鏡!だった。最近は、認知症で私を見ても「誰?」って状態だったけど、名前を出せば、すぐに昔のように笑って名前を読んでくれて、嬉しかった。



なんか思い出を言葉にすると、もう会えないということがよりリアルになってしまうので、憚られる…。だけど、すてきな26年間をありがとう。

モンペデビュー(3)

 

仲良しのおともだち親子が足立区に引っ越すことになった

 

「ほんと治安悪いらしくて、足立区の教師は自分の子供は絶対足立区の学校に入れたくないって話してるらしいですー」

どういうこと?

「なんかうるさい親とか良識ない親が多いらしくて〜」

 

先生にわざわざ置き勉の提案の電話をするような親は、世間一般の先生方からしたら”うるさい”あるいは”良識ない”親(または両方)だろうか

 

新しい一年が始まり担任の先生が代わった

新しい担任の先生への引き継ぎ事項として名簿の娘の名前の隣に

※お母様がモンペ気味

と書かれているだろうか

 

その後「来年になったら教科書ぜんぶ持ち帰ってもらいますからね!」と言われていた娘

“じぶんだけ「やらない」「守らない」なんて絶対おかしいよ!”

の標語が廊下に掲げられている学校である

じぶんだけ教科書を持ち帰らない生徒(とその親)は先生も頭が痛いだろう

 

決められたこと、みんながやっていることに倣って一緒にやる

きっとこれが学校の求める良識

 

余計なこと言わずに

学校の”良識”に従っていれば

娘が先生に責められることもなかったのに

 

私の良識ってなんだろう

 

そしてこれからを生きる娘に

身につけて欲しい良識とは

 

良識ってほんと難しい

 

新緑を愛でに…

2021-05-03

行ってきました

そこに流れていた時間と、

過ごした時間の調和がとても心地よく、

ありがたく…

ヤマブキも見頃でした

澄んだ空気と

闇夜の雨音に心が洗われました。

誘いに乗ってくれた友に感謝。

新緑を愛でに…の思いを

完全に体現していた木が1本。

かなわないなー

日を浴びて踊りたそう

そしてこちら、

木に差し込んだネジをクルクル回すと

鳥の鳴き声がするBird Call。

効果があるのかもともとなのか、

ちょっとだけコーラスの仲間入り。

駅のガチャガチャで

記憶の新しいうちに

残像を留めておきたくて、

こちらでちょこっと、おすそわけ。

(※音付きです)

Bird Callもご一緒に

残りの日々もゆるやかに

過ごせますように

yuko / כלב

いい写真撮ってもらっちゃった〜

おませな友達のはなし

新学期が始まって、週6で行っていたバイトが週3になった。
3月まで毎日のように会っていた小学生も、その変化には気づいたよう。

そんなときの小学3年生の女の子とのやりとり

「あ!すっごいひさしぶりじゃない?」

『そうだね!4月からわたしも学校始まったのよ』

「え?学校?何の?」

『実は言ってなかったけど、わたし大学院生なんだ~』

「え!そうなの?」

『そう~』

「え、大学生ってこんなにおっきいんだ」

…それは「大学生」じゃなくて「わたし」が大きいだけなんだけどね(笑)

先日の健康診断で179.8cmをマークしました!

その子も含め、小学3年生ぐらいになると女の子ってすごく大人な視点で話してたりするんだけど、このセリフには思わず笑っちゃった。

男の子たちと比べると、おませでたまにビックリするくらい大人な発言もするけど
やっぱり小学生なんだな~ 。

驚くほど生意気で、悪知恵働かせてくるときもあるけど、やっぱり可愛い。
どうか今のような純粋さを忘れずに成長してくれたらな、と思うのでした。

夕日と雲と青空がすごく素敵だった

[抜粋] 書くとは、そして読むとは

「書くという行為は、やがて耳を澄ますという行為になる。それも、聞こえないものに耳を澄ます。作品はどうも性能のよろしくない受信機みたいなものであります。かなたへ耳を澄ませば、かなたもこちらへ向けて耳を澄ます。これはヴァレリーの、確かナルキソスの詩の中にある言葉です。ナルシスといえば水鏡です。視覚的には鏡ですが、聴覚的には谺と言えるでしょう。谺の沈黙というアイロニーを含むことだと思います。ただ、その沈黙が、聞こえることの始まりか、言葉の始まりなのかもしれません。その境地にたどり着くのは無理なようでも、接近したいとは思っています。要するに、作家として、いまだに埒が明かない現状であります」(古井2012: 78)

「今、人が政治家や実業家に持っている不満は、突き詰めると、文学の欠如に対してではないか。それは、詩を読めとか、小説を読めということではありません。不確定なものへの関心のことです。なおかつ、何か確かなものを見つけたい。しかし、それはほぼ見つけられないものであり、それを求める心だけが確かなものなのではないか。そこが文学だと思うんです。[…]書くという行為には二通りあると思います。書くことがあるから書く。これが表でしょう。その裏に、書くことがなくなったところから書くということがある。書くことがなくなったというのは、今まで自分の馴れている世界、あるいは世界に通用する観念連合や、価値の軽重や、そのようなものがほどけてしまったところに生じます。実際には、書こうとして、一行も書けなくなるような境地がある。私にはよくわかるんです。いつもそこにさらされている。そこにさらされたとき、その奥から何かが見えてくる。そういう書き方があるんですね。」(古井2012: 80-81)(平成二十四年十月二十日 東京大学文学/「群像」平成24年十二月号)


「書くことは、言葉を花開かせる営みである。語り得ぬコトバを、書くことによって言葉にすることで、私たちは自分の心のなかに眠っている宝珠を発見する。」(若松 2016: 152)

「書くとは、自らの考えていることを確かめる行為であるよりも、書き得ない何かと邂逅する営みなのだろう。」(若松 2016: 161)


「書くとは言葉の器をつくるということだ。その言葉の器にわたしがとどめたいとねがうのは、他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ。」「自分の時間へ」(長田 2015: 392)

「書くとはじぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声を書き留めて、言葉にするということである。」『奇跡ーミラクルー』(長田 2015[2013]: 652)


「読むことは、本にのこされた沈黙を聴くことである。」「聴くという一つの動詞」(長田 2015: 529)


「ことばって、なんだと思う?けっしてことばにできない思いが、ここにあると指すのが、ことばだ。」(長田 2015: 529)


「日本人にとっては、ちょっとわかりにくいことだと思うけど、「言う」ということ「思う」ということは古代ギリシャ語ではイコールでつなげる。それで、小田実さんとしては「発言と言うのは、思索、考えることと直結するんだ」とおっしゃるわけね。確かに古代ギリシャ語には近代の西洋語にある「思う」、think,フランス語はpenser、ドイツ語はdenken、それと全く等しい言葉はないようなんです。「認識」というのは、むしろ感受と言う方向になり、「思う」というような能動をあらわすとなれば、「言う」という言葉なんですね。lego、これは現在形一人称で不定詞はlegeinです。この「言う」には、二系列の意味があるんです。一つは「言う」、もう一つは「思う」。その名詞はlogosです。これも二系統あって、一つは「言葉」、もう一つは「論理」、ことわり。これは「考える」という意味の方向です。「はじめに言葉ありき」はlogosです。「言う」と「思う」を両方含んでいる。」(古井2007: 85)

「要するに言語ということは、いわゆる言葉の乱れを正すとか、そういうことではなくて、人は話す時、その都度、形にならないある思いのなかから一つの声を聞き分けて、それを文字にし、意味にし、意味を組み立てて、文章にしていく。そういうことを、書くにつけ読むにつけ話すにつけ思うにつけ、やっていると思うんです。人間という動物は言語の発明者でしょう。ほとんども形もないカオスから、僕は最初に声だと思うんですね、音声、それが言葉となり、意味となる。それは古今東西、人がものを話すたび、思うたびにやっていることです。その中で、特に日本人は「変換」というものを踏まえて難しい立場になっている。冒頭で、ギリシャ語では「言う」ということと「思う」ということがつながっていると言いました。「ロゴスは言葉であり、思いである」と。聖書で言う「はじめに言葉ありき」とは、実は我々が日常、一日のうちに何度も何度も繰り返していることではないのか。ですから、どうかというと、まあ、せめて身体は丈夫にしておきましょう。どうも長いことご清聴ありがとうございました。」(古井2007: 104)


古井由吉(2007)「小説の言葉」古井由吉(2020)『書く、読む、生きる』草思社、pp.82-104.

古井由吉(2012)「翻訳と創作と」古井由吉(2020)『書く、読む、生きる』草思社、pp.67-81.

長田弘(2015)『長田弘全詩集』みすず書房.

若松英輔(2016)『言葉の贈り物』亜紀書房.

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