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記:Logs

つぶやきがわりの雑記をここに

考える・恋しさ・こども

2021-04-12

お風呂の中で、

いろんな話をした。

忘れたくないので、出た後にメモに吹き込んでもらい…

2回目だけど、原稿や打ち合わせは一切なしのワンテイク。

途中から、パーソナリティーになりきり。

次回も(?!)おたのしみに!

2分半のおはなし

【引用元】

『おばあちゃんがおばあちゃんになった日』(長野ヒデ子さく、童心社、2015年)

【おまけ】

保育園で、こんなうたもならったとのこと…

たった10秒ほどが、すばらしい。

はてな

はてな

ほんとかな

ぐるりとまわして(頭を一周させる)

うん、そうだ

はてな、はてな、ほんとかな?

【おまけ写真】

お香の煙がたまらん①
お香の煙がたまらん②

「またいつか、ご縁がありましたら…」

先日、朝一で仕事を終えて、

カフェでモーニングセットを頼んで読みものをしていた。

ふと気がつくと、

隣の隣にすわっていた初老の女性が、

スマホを片手にそーっとこちらへやってきて

「ちょっといいですか?」と。

何が始まるのかな、と

何かの勧誘かな、と

ほんの少しだけワクワクしていたら

女性は、

「今日、孫の入学式でしてね、ここから見られるって教えてもらったんだけど…」と

スマホの画面をこちらに見せた。

コロナのため保護者とその家族向けに

入学式の様子がYouTubeでライブ配信されているというのだ。

なるほど、リンクを開けば今始まったばかりと思われる入学式が

目の前にあらわれた。

下の方に広告がチラチラと出てくるもので、

他のボタンを押すつもりでなくとも

ほんの少し触れただけで広告や次の動画に移ってしまい

その女性は途方に暮れていたようだった。

確かに、下の方にチラチラ出てくる広告は邪魔そのもので、

それでも女性はしっかりスマホを握りしめ

いつ映るとも知れない孫の姿を追いかけていた。

(しばらくして、全画面にすればいいのだと思い出しあわてて、それをお知らせした。)

小さな画面からお孫さんのお顔まで見れたかどうかは

わからないものの、その女性は優しそうな笑みを浮かべて

「どうもすみません」

と私に繰り返した。


再び読みものに戻り

しばらく経つと、目の前にトレーを持った人の気配が。

両隣の席は埋まっていたので、

あれ?お店の人かな?と思って見上げると同時に、

「これ、たべて」と

読んでいた本の上にポンっとサンドイッチが。

紙コップに注いだ水も机の端に置いて。

その仕草の

あまりに自然で、

あまりに慣れた様子に私の目は女性の手元に吸いよせられた。

「えーいいんですかー?!」

「いいのいいの、食べてちょうだい」

さらりと言って、席へ戻られた。

そのサンドイッチは、素直にありがたかった。

前日の夜から何も食べていなかったから、

モーニングのクロワッサンだけじゃ物足りないと思っていたからだけでなく、

「どうもすみません」と恐縮されていた女性が

もう恐縮することがないと思うと

心が軽くなった気がして、ありがたかった。


「贈与」と「交換」の関係が

しばらく前から気になっていた私は、

最近読んだばかりの新書の一冊を思い出していた。

「贈与という現象の最大の問題は負債にあります。物をあげるという行為は、同時にもらった側に負債の感覚を与えてしまうのです」(中島2021: 85)

そう、女性に私が与えてしまったであろう負い目を

解消する術を女性の方から私に与えてくれたことに。

なんとなしのわだかまりがサンドイッチに掬われた気がしたのだ。


中島(2021)では続いて、人類学者マーシャル・サーリンズの負債の議論を取り上げ

サーリンズが分類した3つの互酬性について説明している。

せっかくなので、女性と私におきた出来事もこの互酬性の概念から振り返ってみたい。

サーリンズのいう3つの互酬性は以下の通り:

(1)一般的互酬性:親族間で食べ物を分け合うなど。返礼はすぐに実行されなくてもよい

(2)均衡的互酬性:与えられた物に対して同等のものがかえってくることが期待される。返礼は決められた期限内に返済されることが期待される

(3)否定的互酬性:みずからは何も与えないか、少なくして、相手から最大限に奪おうとする。詐欺や泥棒など

この3つを提示した上でサーリンズは、

一般的互酬性に潜む「権力の萌芽」を指摘するという(ibid., pp.84-85)。

(中島(2021)の議論はこの後、返礼の相手が誰か(本人であれば「直接互恵」、本人以外の誰かであれば「間接互恵」)という点や、贈与から交換へと関係性が変わること、はじめから「期待」をしていないという前提や、そのような「贈与」の根源には自分を超えた何かによる「業」が潜んでいるという仏教概念を提示しながら「縁起的現象としての「私」」(ibid., p.99)へと展開していく)

私が心が軽くなったと感じたのは、

「どうもすみません」を繰り返す女性を前に、

私の「贈与」がその実体以上に肥大化し

女性に肥大化した「負債」を追わせてしまっていた(と私が思う)事態に対して

女性が(2)「均衡的互酬性」へと枠付直してくれたことに起因する。

「贈与」の最中、それも私自身は「贈与」であるとは全く思わず

むしろ、「呼びかけられたから、できることをやったまで」というある種の

私の中の利己的な美意識に動かされただけで、

「互酬性」の規範など1mmも頭をかすめていなかった出来事がもたらした「負債」を

解消する手立てとして「均衡的互酬性」という規範が持ち込まれたこと、

これにより私と女性のあいだの「贈与」による関係が

「交換」の関係へと変化したことで、救われた気がしたのである。

こう振り返ると、サーリンズの(1)〜(3)の互酬性の議論は

「物」と「物」の交換を前提としており、

そこに「言葉」が加わることについては、どのように議論されているのだろうか?

と疑問が湧いてくる。

「言葉」それ自体が持つ「互酬性」の規範意識が

どのように共有されていたのかがわかれば、「返礼」の概念もかわってくるのだろう。

この「言葉がもつ互酬性の規範意識」という考え方は、

「贈与」と「負債」に関する議論の水脈を掘り起こし、

「支配」と「暴力」の議論へと展開する一つのきっかけになりそうな…。


サインドイッチが置かれてから30分ほど経ったころ

「〇〇ちゃん、シャツ出てるよ」という声が聞こえてきたので、

顔を上げてみると

入学式から戻ったばかりのお孫さんとお母さんがそこに。

お母さんの「お世話になりました」に、

「いえいえ、ご入学おめでとうございます」と

お互い頭をさげて。

帰り際、女性は再び私に向き直り、

「ありがとうございました。またいつか、ご縁がありましたら…」

と頭を下げてお店を出られた。

後に続くお孫さんは、さりげなく女性を気遣っていて

そのまなざしから、

二人がこれまで大切に培ってきたであろう

柔らかな時間とその暖かさが

こちらにまで伝わってきた。

二人の姿を目で追いかけながら、

サンドイッチを頬張った。


【追記】

ここまで書いて、マーシャル・サーリンズが月曜日(2021/4/5)に亡くなられたと知る(「A Great Tree Has Fallen: The Passing of Marshall Sahlins」 by David Price, April 9, 2021)。

そして去年亡くなったデヴィッド・グレーバーはサーリンズの教え子で、サーリンズはデヴィッドの追悼文を書いていたことも(「追悼 デヴィッド・グレーバー(1961-2020)/マーシャル・サーリンズ」以文社)。

【参考文献】

中島岳志(2021)「利他はどこからやってくるのか」伊藤亜紗・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎『「利他」とは何か』集英社新書、pp.65-107.


新しい春

しまった。

なんてこった。

一度も更新できずに3月が終わっちゃった。

もう1年の1/4が終わったなんて…

昨日、新しい春がきた。

1日どこかむずがゆく

1日まるで落ち着かず

どうにもこうにもならないので

帰り道に、友を呼びつけ一息。

8年前、足繁く通ったそのお店は

何もかもが昔のままで

テーブルにちらばる

入学式を終えたばかりの

眩しいほどの若さが

時が経ったことを知らせる

唯一のしるしで。

渡された名刺に書かれた名前は

どこの誰だかわからない。

これだから

私は人からもらう私の名刺が

とことん苦手だ。

本当に自分の名前が刺されて

身動きできない気分になる。

それでも

それでも

一枚取り出して、

あの人の写真たての前に。

「いつもありがとう」とだけ

走り書きして。

あの人は最期まで

祈りの人だった。

昨日、新しい春がきた。

私はまだ、支えられてる。

やさしさに包まれたなら

いい意味で心がぞくぞくするすてきな場所に招待してもらって、とってもワクワクしながら書き出してみる!

というわけで、最近積読本を1冊読み終えた。

精神科における”患者”とのやりとりから「やさしさ」を考えるというのがテーマ。実際の相談例を載せながら現代人の考える「やさしさ」に迫っていて、小説みたいにスラスラ読めた。そんな中で、個人的にこの本のキモだと感じたのが、昔の「やさしさ」と現代の「やさしさ」が違うということ。

この本における「やさしさ」とは、滑らかな人間関係を築いていく上で、潤滑油のような働きをするもの、だそう。この基本的な「やさしさ」の役割は、昔も現代も共通しているけれど、指し示すものが違うらしい。ざっと簡単に違いを書いてみるとこうなる。

昔の「やさしさ」

    ・「気持」重視

    ・近代語として、人を和ませる性質の一種

          →娘たち、花々の美徳としては認められるが、マイナー価値

          →優しさは与するに易しいこと

    ・1970年代(学園闘争) 自分も他人もともに弱い傷ついた者であるという認識 

          →「互いの傷を舐め合うようなやさしさ」

          →「やさしさ」を向けられることで傷ついていたことに気づく

          →傷を癒すためには「やさしさ」が必要

  

現代の”やさしさ”

    ・具体的に実践可能

    ・裕福になり、物に囲まれる → 「使い捨て」の時代に

          →わずかな傷でも、新品とは認められなくなる

    ・傷がつくことへの恐れ

          →治療としての「やさしさ」から予防としての”やさしさ”へ

          →傷をなめ合うのではなく、お互いを傷つけない”やさしさ”

           e.g.)あえて電車で高齢者に席を譲らない、声をかけない等

なんというか、昔の「やさしさ」は相手に寄り添う、相手の領域にも足を踏み入れるような感じ。現代の”やさしさ”は、こうしたら「やさしくない(だろう)」という軸があって、その中でこれは相手にとって「やさしい/やさしくない」と決める(決めつける)ようなもの。

この「やさしさ」と”やさしさ”とでは、目指している人間関係自体の内容も変化したらしい。それを理解するうえで紹介されていたのが、「涙する場面」。

●人間が泣いている人を見ると、その人の気持ちを察して同情しようとする。

●人の悲しみに自分の心がゆすられる。

この2つは人間関係における「やさしさ」の原点で、昔も今も変わらないらしい。ただ、変化したのはこの先についてで、

昔は、「人の心の痛みがわが事のように思えることは『良い』こと」で、そうなることで「お互いの気持ちが一つになり、一体感を得られた」から、人は「やさしい人」の前でなら、心おきなく涙することができた。らしい。なるほど。

一方で、現代において”やさしい人”であればあるほど人の悲しみ・悔しさに動揺をしてしまう感受性の鋭い人を指すようになったそう。つまり、「弱い」らしい。

という感じでざっくりとだけ違いを紹介してみました。なるほど~。「やさしさ」とは関係ないけど、別の本で昔と今における人とのつながりの違い、みたいなものを何冊か読んだときに、昔の人は「同質的」「同調的」で、「長いものに巻かれろ」みたいな関係を築く一方で、今の人たちは「共存的」「協調的」のような関係性を望む、というのが共通して書かれていたということが思い出されたんですよね。

この昔の「やさしさ」も言い換えれば他者との「同質化」を図ろうとするもので、現代の方は、「同質化」ではないみたいな。なんなんだろうね。というかある意味「同質」である状態がデフォルトのようになってしまったみたいな?でも、ふと思ったけど、自分と他人が100%重なることなんてないのに、「同質化」を望むって、そもそも無理だなと。仮に、同質になれたと錯覚したところで、結果自分と他人が違うのだから、「同質化したいけどできない」みたいなジレンマに陥って、疲れるよね*。だから「同質化」から抜け出すのは至極全うだなと考えた。

*そもそも同じになれないことを理解して、同情するからこそ「やさしい」のか…?

現代の”やさしさ”における「お互いを傷つけないこと」と「共存的」もなんとなく合点が行くかな~と。相手を傷つけたくない、そして自分も傷つかない、これを達成できるのは、「あえて傷をつけるのような事はせず、”やさしく”いること」だよね。まあ、そもそも誰とも関わらない方が良いんだけど、そうはいかないのが現実。”やさしさ”を意識して、お互いの領域を侵すことなく、自分とは異なる存在と「共存」していこうとする。でも、個々人の「やさしさ」の軸が異なるから「共存」するにも支障が出てくる。うーん、大変だ。

とっても矛盾をはらんでいるけど、人間って「やさしく」ありたいんだね。

大平健(1995)「やさしさの精神病理」岩波新書.

外れ年

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贈り物と頂きモノ(2)

2021-01-23

キャベツを乳酸発酵させる「ザワークラウト」

一玉まるごと。

つくりながら2週間後に思いをはせて…

2週間後のわたしは、

2週間前のこの時に思いをはせる…

「いただきます」

のことばは、自然と作り手とを一体として

まるごといただくことを意味していると思っていた。

そこにはもちろん、見えない働き手である

乳酸菌やその他の無数の菌も含まれて。

ふと、

その「まるごと」とは、

「時間」なのではないか、との

思いが過ぎる。

いただいているのは「時間」なのか、と。

2週間前と2週間後をつなぐ「時間」

2週間前よりさらに向こう、

キャベツを育て、収穫し、出荷するまでの「時間」

そのまたさらに、今の形のキャベツになるまでの

種がくりひろげる、膨大な「時間」…

そのような「時間」のなかで、

贈り物と頂きモノ、

その事成り(異なり)は、

並列と対峙の関係

といいかえられるのではないか、と考えてみる。

①のように、

カコからミライへと、

贈り物が「濃青」であれば、

頂きモノは「水色」で、

時間軸に対して

並列し、並行する贈り物と、

時間軸に対して

対向し、逆行する頂きモノ。

どちらを向いているかでみれば、

②のように、

贈り物は、ミライを(濃青)

頂きモノは、贈り物が渡されるまでの時間、すなわちカコを(水色)

それから、贈り物をいただく時間(イマ・ミライ)を(黄色)

ミライへ向かう時間には、

きっと贈り物の時間も含んでいて…

こんな落書きをしていたら、

「時間」を直線と捉えていることに気付く…

2週間前と2週間後をつなぐ「時間」

2週間前よりさらに向こう、

キャベツを育て、収穫し、出荷するまでの「時間」

そのまたさらに、今の形のキャベツになるまでの

種がくりひろげる、膨大な「時間」…

これらは、

本当に「直線の時間」なのだろうか?

「この前はありがとう」

「前向きに…」

といった

ことばをポツポツ思い浮かべてみれば、

「前」や「後」にはどうも

二重の意味がありそうで…

時間を直線的に捉えて、

贈り物と頂きモノを並列と対峙の関係で捉えたのでは、

この二重の意味(カコとミライ)を、

(②でいったら濃青と水色と黄色のばらばらな「向き」を)

うまく示せない…

だとしたら、

③みたいに考えられはしないだろうか…

贈り物の時間と

頂く時間の関係は、

「円環」しているのだと。

そうすると、

直線的な時間と、

円環的な時間はどう関係するのだろうか…

④みたいに、

コイル状にながれる電流には

磁界が生成するような

二次的な生成物としての「時間」や

⑤のように、

輪切りの完結する円形の

(贈り物と頂きモノの「輪」の出来事)

中心を貫通するものとしての「時間」も

あるのかもしれない。

そうなったとき、

直線的な時間は⑥、⑦のように、

その影を潜める。

社会学者の真木悠介(見田宗介)は、

『時間の比較社会学』のなかで

そのような直線的な時間があらわれるときを、

次のように述べている。

「不可逆性としての時間が切実なものとなるのは、反復する自然の時間性から剥離する一回性としての人間的時間が自立してくるとき」(真木 2003[1981] : 193)

つまり、反復する自然の時間(円環でも円形でも)から、

一回性としての人間的時間がはがれ、

それが一つのまとまりとして意味を持つとき、

不可逆性としての時間

すなわち遡ることが不可能な、

一方通行の直線的な時間が

切実なものとなるのだ、と。

あわせて、不可逆性としての時間、

その数量化かつ実体化された

観念としての時間が生じる過程には、

「<共同態ー(ゲマインシャフト)>」の生きられる共時性の外部に、自立する<個体性>の相互のあいだの集合態(ゲゼルシャフト)的な連関ーー 客観化された相互依存の体系を展開する世界」(ibid., 195)

があると述べている。

つまり、

例えば未来に「死」をみとめ、

そこへと向かう形で

「生」を捉えるような時間感覚の把捉

(直線的な時間、ゆえに「生」を空しいと感じるの)は、

反復する自然から「一回性の人間」を切り取ったとき

を前提とするのであって、

そのような切り取りが可能になるのは、

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」の外に

「個」を核とする組織構造的な集合としての社会(ゲゼルシャフト)をみたとき、

つまり、

相互依存の体系を、客観的に見る世界があるからこそなのだ、と。

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」とは、

おそらく、

円環的あるいは円形的な

贈り物と頂きモノの行きつ戻りつの

往来としての「生」…

「第一に、現在の生をそれじたいとして愛する実感(センス)を失わないかぎり、そして第二に、未来がある具体性のうちに完結する像をむすぶかぎり、すべての未来がそのかなたに死をもつと言う事実といえども、われわれの個体や人類の生涯を空しいものとはしない。」(ibid., 309)

贈り物と頂きモノの円環・円形としての

出来事とは、つまり、

⑥’や⑦’のように、

時間は、「現在」をはなれて、存在するのではなく、

それは実体化も物象化もされず、

無限でも抽象でもないものであることを(ibid., 308-309)

具体的かつ有限の出来事から

明らかにする。

そうすることで、抽象化され

実体化された時間(クロノス)とは別な

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」

ー生きられる「時間」(カイロス)ーを枠づける。

贈り物と頂きモノの関係において

立ち現れる「時間」には、

-生きられる「時間」の枠付け-

という、

そんな本質が秘められているのかもしれない。

yuko/כלב

真木悠介(2003[1981])『時間の比較社会学』岩波書店.

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