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モンペデビュー(3)

 

仲良しのおともだち親子が足立区に引っ越すことになった

 

「ほんと治安悪いらしくて、足立区の教師は自分の子供は絶対足立区の学校に入れたくないって話してるらしいですー」

どういうこと?

「なんかうるさい親とか良識ない親が多いらしくて〜」

 

先生にわざわざ置き勉の提案の電話をするような親は、世間一般の先生方からしたら”うるさい”あるいは”良識ない”親(または両方)だろうか

 

新しい一年が始まり担任の先生が代わった

新しい担任の先生への引き継ぎ事項として名簿の娘の名前の隣に

※お母様がモンペ気味

と書かれているだろうか

 

その後「来年になったら教科書ぜんぶ持ち帰ってもらいますからね!」と言われていた娘

“じぶんだけ「やらない」「守らない」なんて絶対おかしいよ!”

の標語が廊下に掲げられている学校である

じぶんだけ教科書を持ち帰らない生徒(とその親)は先生も頭が痛いだろう

 

決められたこと、みんながやっていることに倣って一緒にやる

きっとこれが学校の求める良識

 

余計なこと言わずに

学校の”良識”に従っていれば

娘が先生に責められることもなかったのに

 

私の良識ってなんだろう

 

そしてこれからを生きる娘に

身につけて欲しい良識とは

 

良識ってほんと難しい

 

[抜粋] 書くとは、そして読むとは

「書くという行為は、やがて耳を澄ますという行為になる。それも、聞こえないものに耳を澄ます。作品はどうも性能のよろしくない受信機みたいなものであります。かなたへ耳を澄ませば、かなたもこちらへ向けて耳を澄ます。これはヴァレリーの、確かナルキソスの詩の中にある言葉です。ナルシスといえば水鏡です。視覚的には鏡ですが、聴覚的には谺と言えるでしょう。谺の沈黙というアイロニーを含むことだと思います。ただ、その沈黙が、聞こえることの始まりか、言葉の始まりなのかもしれません。その境地にたどり着くのは無理なようでも、接近したいとは思っています。要するに、作家として、いまだに埒が明かない現状であります」(古井2012: 78)

「今、人が政治家や実業家に持っている不満は、突き詰めると、文学の欠如に対してではないか。それは、詩を読めとか、小説を読めということではありません。不確定なものへの関心のことです。なおかつ、何か確かなものを見つけたい。しかし、それはほぼ見つけられないものであり、それを求める心だけが確かなものなのではないか。そこが文学だと思うんです。[…]書くという行為には二通りあると思います。書くことがあるから書く。これが表でしょう。その裏に、書くことがなくなったところから書くということがある。書くことがなくなったというのは、今まで自分の馴れている世界、あるいは世界に通用する観念連合や、価値の軽重や、そのようなものがほどけてしまったところに生じます。実際には、書こうとして、一行も書けなくなるような境地がある。私にはよくわかるんです。いつもそこにさらされている。そこにさらされたとき、その奥から何かが見えてくる。そういう書き方があるんですね。」(古井2012: 80-81)(平成二十四年十月二十日 東京大学文学/「群像」平成24年十二月号)


「書くことは、言葉を花開かせる営みである。語り得ぬコトバを、書くことによって言葉にすることで、私たちは自分の心のなかに眠っている宝珠を発見する。」(若松 2016: 152)

「書くとは、自らの考えていることを確かめる行為であるよりも、書き得ない何かと邂逅する営みなのだろう。」(若松 2016: 161)


「書くとは言葉の器をつくるということだ。その言葉の器にわたしがとどめたいとねがうのは、他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ。」「自分の時間へ」(長田 2015: 392)

「書くとはじぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声を書き留めて、言葉にするということである。」『奇跡ーミラクルー』(長田 2015[2013]: 652)


「読むことは、本にのこされた沈黙を聴くことである。」「聴くという一つの動詞」(長田 2015: 529)


「ことばって、なんだと思う?けっしてことばにできない思いが、ここにあると指すのが、ことばだ。」(長田 2015: 529)


「日本人にとっては、ちょっとわかりにくいことだと思うけど、「言う」ということ「思う」ということは古代ギリシャ語ではイコールでつなげる。それで、小田実さんとしては「発言と言うのは、思索、考えることと直結するんだ」とおっしゃるわけね。確かに古代ギリシャ語には近代の西洋語にある「思う」、think,フランス語はpenser、ドイツ語はdenken、それと全く等しい言葉はないようなんです。「認識」というのは、むしろ感受と言う方向になり、「思う」というような能動をあらわすとなれば、「言う」という言葉なんですね。lego、これは現在形一人称で不定詞はlegeinです。この「言う」には、二系列の意味があるんです。一つは「言う」、もう一つは「思う」。その名詞はlogosです。これも二系統あって、一つは「言葉」、もう一つは「論理」、ことわり。これは「考える」という意味の方向です。「はじめに言葉ありき」はlogosです。「言う」と「思う」を両方含んでいる。」(古井2007: 85)

「要するに言語ということは、いわゆる言葉の乱れを正すとか、そういうことではなくて、人は話す時、その都度、形にならないある思いのなかから一つの声を聞き分けて、それを文字にし、意味にし、意味を組み立てて、文章にしていく。そういうことを、書くにつけ読むにつけ話すにつけ思うにつけ、やっていると思うんです。人間という動物は言語の発明者でしょう。ほとんども形もないカオスから、僕は最初に声だと思うんですね、音声、それが言葉となり、意味となる。それは古今東西、人がものを話すたび、思うたびにやっていることです。その中で、特に日本人は「変換」というものを踏まえて難しい立場になっている。冒頭で、ギリシャ語では「言う」ということと「思う」ということがつながっていると言いました。「ロゴスは言葉であり、思いである」と。聖書で言う「はじめに言葉ありき」とは、実は我々が日常、一日のうちに何度も何度も繰り返していることではないのか。ですから、どうかというと、まあ、せめて身体は丈夫にしておきましょう。どうも長いことご清聴ありがとうございました。」(古井2007: 104)


古井由吉(2007)「小説の言葉」古井由吉(2020)『書く、読む、生きる』草思社、pp.82-104.

古井由吉(2012)「翻訳と創作と」古井由吉(2020)『書く、読む、生きる』草思社、pp.67-81.

長田弘(2015)『長田弘全詩集』みすず書房.

若松英輔(2016)『言葉の贈り物』亜紀書房.

考える・恋しさ・こども

2021-04-12

お風呂の中で、

いろんな話をした。

忘れたくないので、出た後にメモに吹き込んでもらい…

2回目だけど、原稿や打ち合わせは一切なしのワンテイク。

途中から、パーソナリティーになりきり。

次回も(?!)おたのしみに!

2分半のおはなし

【引用元】

『おばあちゃんがおばあちゃんになった日』(長野ヒデ子さく、童心社、2015年)

【おまけ】

保育園で、こんなうたもならったとのこと…

たった10秒ほどが、すばらしい。

はてな

はてな

ほんとかな

ぐるりとまわして(頭を一周させる)

うん、そうだ

はてな、はてな、ほんとかな?

【おまけ写真】

お香の煙がたまらん①
お香の煙がたまらん②

外れ年

[Read more…] about 外れ年

贈り物と頂きモノ(2)

2021-01-23

キャベツを乳酸発酵させる「ザワークラウト」

一玉まるごと。

つくりながら2週間後に思いをはせて…

2週間後のわたしは、

2週間前のこの時に思いをはせる…

「いただきます」

のことばは、自然と作り手とを一体として

まるごといただくことを意味していると思っていた。

そこにはもちろん、見えない働き手である

乳酸菌やその他の無数の菌も含まれて。

ふと、

その「まるごと」とは、

「時間」なのではないか、との

思いが過ぎる。

いただいているのは「時間」なのか、と。

2週間前と2週間後をつなぐ「時間」

2週間前よりさらに向こう、

キャベツを育て、収穫し、出荷するまでの「時間」

そのまたさらに、今の形のキャベツになるまでの

種がくりひろげる、膨大な「時間」…

そのような「時間」のなかで、

贈り物と頂きモノ、

その事成り(異なり)は、

並列と対峙の関係

といいかえられるのではないか、と考えてみる。

①のように、

カコからミライへと、

贈り物が「濃青」であれば、

頂きモノは「水色」で、

時間軸に対して

並列し、並行する贈り物と、

時間軸に対して

対向し、逆行する頂きモノ。

どちらを向いているかでみれば、

②のように、

贈り物は、ミライを(濃青)

頂きモノは、贈り物が渡されるまでの時間、すなわちカコを(水色)

それから、贈り物をいただく時間(イマ・ミライ)を(黄色)

ミライへ向かう時間には、

きっと贈り物の時間も含んでいて…

こんな落書きをしていたら、

「時間」を直線と捉えていることに気付く…

2週間前と2週間後をつなぐ「時間」

2週間前よりさらに向こう、

キャベツを育て、収穫し、出荷するまでの「時間」

そのまたさらに、今の形のキャベツになるまでの

種がくりひろげる、膨大な「時間」…

これらは、

本当に「直線の時間」なのだろうか?

「この前はありがとう」

「前向きに…」

といった

ことばをポツポツ思い浮かべてみれば、

「前」や「後」にはどうも

二重の意味がありそうで…

時間を直線的に捉えて、

贈り物と頂きモノを並列と対峙の関係で捉えたのでは、

この二重の意味(カコとミライ)を、

(②でいったら濃青と水色と黄色のばらばらな「向き」を)

うまく示せない…

だとしたら、

③みたいに考えられはしないだろうか…

贈り物の時間と

頂く時間の関係は、

「円環」しているのだと。

そうすると、

直線的な時間と、

円環的な時間はどう関係するのだろうか…

④みたいに、

コイル状にながれる電流には

磁界が生成するような

二次的な生成物としての「時間」や

⑤のように、

輪切りの完結する円形の

(贈り物と頂きモノの「輪」の出来事)

中心を貫通するものとしての「時間」も

あるのかもしれない。

そうなったとき、

直線的な時間は⑥、⑦のように、

その影を潜める。

社会学者の真木悠介(見田宗介)は、

『時間の比較社会学』のなかで

そのような直線的な時間があらわれるときを、

次のように述べている。

「不可逆性としての時間が切実なものとなるのは、反復する自然の時間性から剥離する一回性としての人間的時間が自立してくるとき」(真木 2003[1981] : 193)

つまり、反復する自然の時間(円環でも円形でも)から、

一回性としての人間的時間がはがれ、

それが一つのまとまりとして意味を持つとき、

不可逆性としての時間

すなわち遡ることが不可能な、

一方通行の直線的な時間が

切実なものとなるのだ、と。

あわせて、不可逆性としての時間、

その数量化かつ実体化された

観念としての時間が生じる過程には、

「<共同態ー(ゲマインシャフト)>」の生きられる共時性の外部に、自立する<個体性>の相互のあいだの集合態(ゲゼルシャフト)的な連関ーー 客観化された相互依存の体系を展開する世界」(ibid., 195)

があると述べている。

つまり、

例えば未来に「死」をみとめ、

そこへと向かう形で

「生」を捉えるような時間感覚の把捉

(直線的な時間、ゆえに「生」を空しいと感じるの)は、

反復する自然から「一回性の人間」を切り取ったとき

を前提とするのであって、

そのような切り取りが可能になるのは、

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」の外に

「個」を核とする組織構造的な集合としての社会(ゲゼルシャフト)をみたとき、

つまり、

相互依存の体系を、客観的に見る世界があるからこそなのだ、と。

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」とは、

おそらく、

円環的あるいは円形的な

贈り物と頂きモノの行きつ戻りつの

往来としての「生」…

「第一に、現在の生をそれじたいとして愛する実感(センス)を失わないかぎり、そして第二に、未来がある具体性のうちに完結する像をむすぶかぎり、すべての未来がそのかなたに死をもつと言う事実といえども、われわれの個体や人類の生涯を空しいものとはしない。」(ibid., 309)

贈り物と頂きモノの円環・円形としての

出来事とは、つまり、

⑥’や⑦’のように、

時間は、「現在」をはなれて、存在するのではなく、

それは実体化も物象化もされず、

無限でも抽象でもないものであることを(ibid., 308-309)

具体的かつ有限の出来事から

明らかにする。

そうすることで、抽象化され

実体化された時間(クロノス)とは別な

「共同態(ゲマインシャフト)」としての「生きられる共時性」

ー生きられる「時間」(カイロス)ーを枠づける。

贈り物と頂きモノの関係において

立ち現れる「時間」には、

-生きられる「時間」の枠付け-

という、

そんな本質が秘められているのかもしれない。

yuko/כלב

真木悠介(2003[1981])『時間の比較社会学』岩波書店.

贈り物と頂きモノ(1)

2021-1-16

一週間、経つのが早すぎる。

毎日は無理でも

せめて3日に1度は書ければ…

と思う気持ちには

とてもじゃないけど追いつけなくて…

一年が52-54週なら、

今年の残りは50週

一週間に更新が1度なら、

今年の目標更新数は50回

にしておこうかな…

(おーい、少なすぎるよーと、心は叫んでいるけれど…)

さて、今日のYogi Teaのお告げは…

(知友がそう呼んでいた笑)

あぁーやめて…

重すぎる…

今はそんな気分じゃないの

もっとどんよりしたいのよ

(闇に包まれたい時間だし?)

とてもじゃないけど

明るくなれそうにないって

ときにかぎって、

底抜けの明るさで

全人生肯定観念論を展開されても

困るし、もう

全然助けにならないわ!

などと心で罵ったりして。

(8割がた救われてるのに、薄情なやつ)

あまりに正論で

「すき」や「ま」がないのは

もはや正論ではない

はいー決まったー

(今決めた)

いや、違うな…

(ここから独白に入ります)

This life is a gift.って

間違いないの。

100%わかって

100%理解できてるのに

そうとは思えない私がいるのも

100%事実であって、

そうだとすると

This life is a gift.の問題は、

A=Bであることを述べることで

A=Cである可能性を背景に押しやってる

ことにあるのでは。

This life is a gift.に

辿りつくまでに

幾たびも傷ついてきたのに、

そのすべてをひっくるめて

全部まるごと

This life is a gift.だなんて

あんまりで、

This life is a giftなどと

とてもじゃないけど

思えない人の気持ちは、

どれほど遠くに

押しやられてしまうのだろうか…

ということ。

+「…?」

「A=Bであることを述べることで

A=Cである可能性を背景に押しやってる」

とは、

一方で、

「A=BはA=Cでもあって、

A=Bは、Aの一つの側面にすぎない」

ということを、了解しえないのはなぜか

という問題でもある。

like, a kind of, a sort ofのような

ぼかし表現をともなって

A=Bの確からしさの程度をさげて、

了解を得やすくすることもできる。

けれど、そうすると抽象さが増して、

AとBのつながりは不鮮明になる。

その意味で、

何を取るかは多分に政治的・方略的な問題になる。

つまり、

A=Bということで、

A=C(やA≠B)を排除してしまう

(と思われる)事態(≒リスク)が

生じうるとしても、

それでもなお、A=Bという価値がある

と判断された上での

A=B、

This life = a gift.

なのだ。

This life is a gift.のことばの重さは

そのことばの「価値づけ」

(をしてきた人々、を支える人々)

の重さだったのかもしれない。

このことは、

ことばを以て何かについて

述べようとすると

大なり小なり、生じてしまう

永遠のテーゼでもある。

別の言い方をすれば、

ことばの限界。

けれども、ことばは、

神経細胞(ニューロン)から神経細胞へと

神経伝達物質が送られることの

繰り返し、と連なり、

すなわちニューロンネットワークの発露

であるから、

「ことばを以て何かについて述べようとすると

大なり小なり、生じてしまう

(多分に政治的・方略的な)了解の問題」

はそれこそ、ニューロンネットワークの多様さ

つまり、

ことばを生み出す関係の固有性、

置き換えられなさを示している

といえるのではないだろうか。

この神経細胞の伝達を「データ」として蓄積し、

ニューロンネットワークを

検証することになれば、

ネットワークの強弱によって

価値判断を生み出す

に違いなく、

そうなれば、ネットワークの微弱なものは

統計的には捨象され

「ノイズ」とみなされるだろう。

そのネットワークこそが、

その人にとって「固有な」もの

であったとしても。

だからこそ、

だからこそ、

この了解しえなさを、

あるいは

了解できたとしたら、なぜできたのかを、

問うこと、疑うこと、

「ことば」にすることが、

目には見えず

耳にも振るわず

手でも触れず

測りもしえない

「ことば」を生み出す関係の固有性、

置き換えられなさの発露を

唯一のものとして扱う

一つの術(ars)なのだ。

(先達たちは、これを「道」と捉えてきたんだよね?)

「贈り物と頂きモノ」で書こうと

思っていたことから

途方もなくかけ離れてしまったので、

ひとまず第一弾として、

第二弾は、またこんど。

yuko / כלב

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