先日、朝一で仕事を終えて、
カフェでモーニングセットを頼んで読みものをしていた。
ふと気がつくと、
隣の隣にすわっていた初老の女性が、
スマホを片手にそーっとこちらへやってきて
「ちょっといいですか?」と。
何が始まるのかな、と
何かの勧誘かな、と
ほんの少しだけワクワクしていたら
女性は、
「今日、孫の入学式でしてね、ここから見られるって教えてもらったんだけど…」と
スマホの画面をこちらに見せた。
コロナのため保護者とその家族向けに
入学式の様子がYouTubeでライブ配信されているというのだ。
なるほど、リンクを開けば今始まったばかりと思われる入学式が
目の前にあらわれた。
下の方に広告がチラチラと出てくるもので、
他のボタンを押すつもりでなくとも
ほんの少し触れただけで広告や次の動画に移ってしまい
その女性は途方に暮れていたようだった。
確かに、下の方にチラチラ出てくる広告は邪魔そのもので、
それでも女性はしっかりスマホを握りしめ
いつ映るとも知れない孫の姿を追いかけていた。
(しばらくして、全画面にすればいいのだと思い出しあわてて、それをお知らせした。)
小さな画面からお孫さんのお顔まで見れたかどうかは
わからないものの、その女性は優しそうな笑みを浮かべて
「どうもすみません」
と私に繰り返した。
再び読みものに戻り
しばらく経つと、目の前にトレーを持った人の気配が。
両隣の席は埋まっていたので、
あれ?お店の人かな?と思って見上げると同時に、
「これ、たべて」と
読んでいた本の上にポンっとサンドイッチが。
紙コップに注いだ水も机の端に置いて。
その仕草の
あまりに自然で、
あまりに慣れた様子に私の目は女性の手元に吸いよせられた。
「えーいいんですかー?!」
「いいのいいの、食べてちょうだい」
さらりと言って、席へ戻られた。
そのサンドイッチは、素直にありがたかった。
前日の夜から何も食べていなかったから、
モーニングのクロワッサンだけじゃ物足りないと思っていたからだけでなく、
「どうもすみません」と恐縮されていた女性が
もう恐縮することがないと思うと
心が軽くなった気がして、ありがたかった。
「贈与」と「交換」の関係が
しばらく前から気になっていた私は、
最近読んだばかりの新書の一冊を思い出していた。
「贈与という現象の最大の問題は負債にあります。物をあげるという行為は、同時にもらった側に負債の感覚を与えてしまうのです」(中島2021: 85)
そう、女性に私が与えてしまったであろう負い目を
解消する術を女性の方から私に与えてくれたことに。
なんとなしのわだかまりがサンドイッチに掬われた気がしたのだ。
中島(2021)では続いて、人類学者マーシャル・サーリンズの負債の議論を取り上げ
サーリンズが分類した3つの互酬性について説明している。
せっかくなので、女性と私におきた出来事もこの互酬性の概念から振り返ってみたい。
サーリンズのいう3つの互酬性は以下の通り:
(1)一般的互酬性:親族間で食べ物を分け合うなど。返礼はすぐに実行されなくてもよい
(2)均衡的互酬性:与えられた物に対して同等のものがかえってくることが期待される。返礼は決められた期限内に返済されることが期待される
(3)否定的互酬性:みずからは何も与えないか、少なくして、相手から最大限に奪おうとする。詐欺や泥棒など
この3つを提示した上でサーリンズは、
一般的互酬性に潜む「権力の萌芽」を指摘するという(ibid., pp.84-85)。
(中島(2021)の議論はこの後、返礼の相手が誰か(本人であれば「直接互恵」、本人以外の誰かであれば「間接互恵」)という点や、贈与から交換へと関係性が変わること、はじめから「期待」をしていないという前提や、そのような「贈与」の根源には自分を超えた何かによる「業」が潜んでいるという仏教概念を提示しながら「縁起的現象としての「私」」(ibid., p.99)へと展開していく)
私が心が軽くなったと感じたのは、
「どうもすみません」を繰り返す女性を前に、
私の「贈与」がその実体以上に肥大化し
女性に肥大化した「負債」を追わせてしまっていた(と私が思う)事態に対して
女性が(2)「均衡的互酬性」へと枠付直してくれたことに起因する。
「贈与」の最中、それも私自身は「贈与」であるとは全く思わず
むしろ、「呼びかけられたから、できることをやったまで」というある種の
私の中の利己的な美意識に動かされただけで、
「互酬性」の規範など1mmも頭をかすめていなかった出来事がもたらした「負債」を
解消する手立てとして「均衡的互酬性」という規範が持ち込まれたこと、
これにより私と女性のあいだの「贈与」による関係が
「交換」の関係へと変化したことで、救われた気がしたのである。
こう振り返ると、サーリンズの(1)〜(3)の互酬性の議論は
「物」と「物」の交換を前提としており、
そこに「言葉」が加わることについては、どのように議論されているのだろうか?
と疑問が湧いてくる。
「言葉」それ自体が持つ「互酬性」の規範意識が
どのように共有されていたのかがわかれば、「返礼」の概念もかわってくるのだろう。
この「言葉がもつ互酬性の規範意識」という考え方は、
「贈与」と「負債」に関する議論の水脈を掘り起こし、
「支配」と「暴力」の議論へと展開する一つのきっかけになりそうな…。
サインドイッチが置かれてから30分ほど経ったころ
「〇〇ちゃん、シャツ出てるよ」という声が聞こえてきたので、
顔を上げてみると
入学式から戻ったばかりのお孫さんとお母さんがそこに。
お母さんの「お世話になりました」に、
「いえいえ、ご入学おめでとうございます」と
お互い頭をさげて。
帰り際、女性は再び私に向き直り、
「ありがとうございました。またいつか、ご縁がありましたら…」
と頭を下げてお店を出られた。
後に続くお孫さんは、さりげなく女性を気遣っていて
そのまなざしから、
二人がこれまで大切に培ってきたであろう
柔らかな時間とその暖かさが
こちらにまで伝わってきた。
二人の姿を目で追いかけながら、
サンドイッチを頬張った。
【追記】
ここまで書いて、マーシャル・サーリンズが月曜日(2021/4/5)に亡くなられたと知る(「A Great Tree Has Fallen: The Passing of Marshall Sahlins」 by David Price, April 9, 2021)。
そして去年亡くなったデヴィッド・グレーバーはサーリンズの教え子で、サーリンズはデヴィッドの追悼文を書いていたことも(「追悼 デヴィッド・グレーバー(1961-2020)/マーシャル・サーリンズ」以文社)。
【参考文献】
中島岳志(2021)「利他はどこからやってくるのか」伊藤亜紗・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎『「利他」とは何か』集英社新書、pp.65-107.
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