「生きるとは、何かに向かって放たれることであり、目標に向かって歩むことである。その目標は、私の道のりでもなければ私の生でもない。それは私が私の生を賭ける何ものかだ。したがって、それは私の生の遥か向こうにあるものなのだ。もし私が、私の生の内部だけで自己中心的に歩くつもりなら、進むこともなく、どこにも行けないだろう。同じところを堂々巡りするだけだ。これこそが迷宮であり、どこにも行き着けない道、自己の中で道に迷い、まさにおのれの内部を歩き回るだけの道なのである。」(p.249)
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「支配するとは、二重の効力を持っていることなのだ。つまり誰かに命じるという一面と、その誰かに何かを命じるという一面である。そしてその命じる何かは、つまるところある企て、ある歴史的な大きな運命に参画せよということである。」(p.250)
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「創造的な生は、高度な精神衛生の状態と大いなる品格、そして尊厳の意識を駆り立てる不断の刺激といったものを要求する。創造的な生とはエネルギッシュな生である。それは以下の二つの状況のいずれかにおいてのみ可能なのだ。すなわち自身が支配する者であるか、あるいは支配の権利を存分に認められた者が支配する世界に生きるか。この二つのいずれか、つまり支配か服従かである。しかし服従することは、我慢をして品位を落とすことではなく、むしろその反対に支配する者を尊敬し、命ずる者と連帯しながら、また戦意高揚の中はためく旗の下に馳せ参じることなのだ。」(p.253)
「14 世界を支配しているのは誰か」(pp.223-314)
「一つの思想を持つとは、その思想にこめられた理性を所有していると信じることなのだ。つまり一つの理性、理解可能な真理でできた一つの世界が存在すると信じることである。思索する、意見を述べるということは、そうした要請に訴えること、その要請に従うこと、その法規や裁定を受け入れること、要するに私たちの考えの理由が議論されるときの対話こそが共生のための最良条件であると信じることなのである。しかし大衆化した人間が議論を受け入れたなら、自己喪失に陥る。そして自分の外にあるその最高審判を尊重すべきとの義務を本能的に拒否するのだ。
そのためヨーロッパにおける「新しい」こととは、「議論にけりをつける」ことであり、会話から始まって学問や議会に至るまで、およそ客観的規範を尊重することを前提とする共生の形式を毛嫌いすることなのだ。ということは、規範の下の文化的共生は断念され、野蛮な共生へと退行することを示す。すべての尋常な手続きは省かれ、望んでいるものの押しつけへと一直線的に進む。先に見たように、すべての社会生活に介入するよう大衆を突き動かすのは、魂の自己閉塞性だ。それはまた大衆を介して唯一の手続きへと、すなわち直接行動へと駆り立てるのだ。」(p.152)
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文明とは、力を最後の手段に留めようとした試みに他ならない。私たちはここに来てそのことを充分明確に理解しはじめている。なぜなら「直接行動」とは順序を逆にして暴力を最初の手段(prima ratio)、もっと正確に言うなら唯一の手段(única razón)にすることに基づいているからだ。暴力とはあらゆる規範の破棄を提案する規範であり、私たちの意図からその押しつけに至るすべての途中経過を削除する規範なのだ。まさに野蛮の大憲章である。」(pp.153-154)
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「自由主義とはーこのことは今日ぜひ思い起こしていただきたいー最高の寛大さなのだ。それは多数者が少数者に与える権利、したがって地球上にこれまで鳴り響いた最も崇高な叫びだ。それは、敵とも、いやか弱い敵とも共生するという決意を宣言している。人類がかくまで美しい、かくまで逆説的な、かくまで優雅な、かくまで曲芸的な、かくまで反自然のものに到達できるとは、にわかには信じられないことだった。だからその同じ人類が程なくその自由主義を捨て去ろうと決意したように見えるのも驚くにはあたらない。それはあまりにも難しく混み入った試みなので、地上に根を下ろすことは無理なのだ。
まさか敵と共生するとは! 反対勢力と共に統治するとは! そのような優しさはすでに理解不可能なものになりつつあるのではないか。反対勢力が存在するような国が次第に極わずかになってきたという事実以上に、現代の相貌を露わにしているものはないだろう。ほとんどすべての国々において同質の大衆が社会的権力の上に重くのしかかり、すべての反対集団を踏みにじり、無きものにしている。大衆はその密度とおびただしい数を見れば誰の目にも明らかだが、自分と違う者との共存は願っていない。自分でないものを死ぬほど憎んでいるのだ。」(pp.155-156)
「8 大衆はなぜ何にでも、しかも暴力的に首を突っ込むのか」(pp.144-156)
「問題とはこれである。すなわちヨーロッパにモラルが無くなったのだ。[…]その生の体制の中心がまさにいかなるモラルにも服従せずに生きたいという熱望から成り立っているということだ。」(p.315)
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「彼の精神状態はすべての義務を無視して、その理由を自らは疑うこともせずに、自分を限界のない権利の主体と感じることだろう。」(p.316)
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「つまり、大衆はただ単に言ってモラルを欠いているということなのだ。つまり常に、本質的に何ものかに対する恭順の念や奉仕と義務の意識であるモラルを持っていないことに尽きる。」(p.318)
「15 真の問題に辿り着く」(pp.315-320)