早春の庭に出て、その目立たない花が視野のどこかに入るたび、小さな宝石箱を隠し持っているような気分になった
─梨木香歩 「2 たおやかで、へこたれない」─
with words, as discourse
早春の庭に出て、その目立たない花が視野のどこかに入るたび、小さな宝石箱を隠し持っているような気分になった
─梨木香歩 「2 たおやかで、へこたれない」─
「違う文化を拒絶せず黙って受け入れた経験を、たくさん持てば持つほど、ひとの「寛容」はどんどん鍛え抜かれていき、そのことがきっと、私たちを「同んなじ家族」(趣味嗜好が違うおじいさん世代、孫世代が互いに干渉しない、でも互いの存在は認めている、という理想の──)にする、という観測は、あまりにもナイーヴな楽観主義でしょうか。」(p.76)
梨木香歩「11 あれから六万年続いたさすらいが終わり、そして新しい旅へ」
はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心がなくなり、なにをしてもおもしろくない。この無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなる。気分はますますゆううつになり、心のなかはますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世のなかにたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世のなかはすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。そうなると心のなかはひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。あとにもどることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。そう、こうなったら灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。
─ミヒャエル・エンデ(大島かおり訳)─
母に誘われて代々木公園のごみ拾いボランティアに行ってみた
誘われたから行ってみただけで
社会貢献とか
環境保全とか
ましてや誰かにほめられたいとかでもなくて
天気もよかったから ただなんとなく
ひまりにとっては初めてのことだったけど
だんだん楽しくなってきたみたいで
もくもくと数十分
地面だけを見つめながら歩くのが新鮮で気持ち良かった
「きったねぇな」
って。
後ろに子どもを乗せたママチャリのおとうさんがすれ違いざまに
急に怖くなった。
すごくちぐはぐした格好でおしゃれな街に来てしまったときみたいに
大昔に仲良しだった子に急に無視され始めたときみたいに
誰かに迷惑をかけたのかな、って
誰かを傷付けた自覚がないのに
他人から急に否定的な言葉をかけられたとき
どうするのが正解なんだろう
そういうとき大抵こちらからアクションを返す時間や対話する空間が与えれない
自転車に乗ったおとうさんはあっという間に公園へ去っていく
駅前の混み合った通りをママチャリで走っていて「じゃま!」って、後ろに乗る娘のシートを殴られたときも
家の敷地でお友だち親子と遊んだ次の日に「子供の声がやかましく、非常に迷惑している」とか「どの親も子どもを注意していない」だとか匿名の苦情のメールが届いたときも
一方的で自分が傷付かずに相手を傷付ける方法だった
なるべく子どもを乗せるときは人通りの少ない道を選ぶし
子どもを家の外で遊ばせるのを控えるようになった
どいてもらえませんか、とか
家に受験生がいるので静かにしてもらえませんか、
とかだったらありがたかったなぁ
対話の機会が与えられなかったわたしは
やっぱり正解がわからない